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「語り」とは零れ落ちるもの。

「語り」は、語ってほしいと言われてすぐできるようなものではないですし、ただひたすら待てば出てくるというようなものでもないと思います。

とりわけ、その「語り」が、語り手となる人自身にとってある一種の苦悩をもたらすような場合は。

その人が語る人になるというのは、「(あ、この人なら/この場なら)語ってもいいな」と「語る主体」になることを意味すると思います。

その人の「語り」を聴く人は、何かを「聴く」ことから始めるのではなく、その人が何かを語る主体になるまでの“身体”の変化(微細なものも含めて)を優しく集中して待つことから始めるでしょう(いつか語ってくれるはずと信じるでもなく、早く語ってほしいと求めるでもなく)。

つまり、その人は、まだ何かを語っていないけれど、その人は語ろうか語るまいかをすでに”身体”が語っていることが少なくありません。そうした”身体”の語りも、その人が瞬時瞬時を生きている姿として聴いていこう、触れていこう、ということです。

その結果として(それを目的とするというより)、その人からふっと零れ落ちるように「語り」が現れ始めるのではないかと思います。哲学者の鷲田清一さんも次のように言っています。

苦しみの語りは語りを求めるのではなく、語りを待つひとの受動性の前ではじめて、漏れるようにこぼれ落ちてくる。つぶやきとして、かろうじて。

語ろうか語るまいかという「語り」は、すでに”身体”から零れ落ちているものであり、その上で「語る主体」になってさらに「語り」が零れ落ちてくるものなのだと考えることができるのではないでしょうか。

その人が「語る主体」になる直前では、おそらく両者の間で“もうそろそろかな?” ”うん”のように視線なり表情なり間主観的な対話が行われているように感じます。

ですから、聴く人とは、語る人が何かを「語る」状態になってから初めて聴く人ではない。すでに零れ落ちている「語り」を最初から聴いている人ということになるのでしょう。そうしてはじめて、語る人は「語る」主体になれる。

このように聴く人が、鷲田清一さんのいう「そうした語りを待つ人」なのかもしれません。私もそのように聴く人になりたいと思います。