見出し画像

「社会的分類」のまなざし。

「社会的分類」は、人々を何らかの基準で「分ける」ものです。例えば、障害の種類だったり障害の程度だったり障害の特性だったり。それはその人は誰かを把握する上である意味「便利」なものでしょうが、「教育」という仕事で人を理解するためには再考を要すると思います。

障害のある人への支援に関わるコンサルテーションを実践していると、現場のスタッフから「〇〇障害だから…」「○○障害の特性から考えると…」という語りを聞くことが多いのです。障害や診断の名称や障害特性など「社会的分類」に支配されたまなざしで障害のある人をみている、ということなのでしょう。

これは、障害のある者-障害のない者の関係だけでなく、障害当事者同士の間においても起こりうることです。障害の種類や程度等の「社会的分類」でその人とつながるか、わけるかを決めたりするようなことが起きているわけです。

私たち障害当事者は、学校や障害当事者団体等で「社会的分類」のことを知り、そのように人と人とを「分ける」ことで「障害について一概に言うことはできない、多様なのだ」ことも教わります。障害と関わる医療・福祉・教育分野における人材育成の現場でもそのように教わります。

その結果として、相手はどういう人かを知ろう、理解しようとするときに、障害に関わる「社会的分類」が「前景化」してしまいがちです。

個としての「物語」こそ相互理解においてもっと関心を寄せることが大事であるはずなのに、それはなぜか「背景化」されてしまう運命にあります。「物語」に関心を向ける理由は、文脈や物語を切り離して「社会的分類」で見ることより、その人自身が納得して生きていくためにどのようなニーズがあるのか、私たちはどのように係わるのかがより具体的に見えてくるからです。

その人自身が、その時々の外界との相互交渉でどのように調整して生きている(きた)のか、個としての「物語」にまなざしを向けることは難しいのでしょうか。

例えば、私はいま障害学生支援を実践しているのですが、障害のある学生たちから「私を障害の種類や程度で分けないでほしい」「私がどのように生きてきた(いる)のかをもっと見てほしい」と心の内を打ち明けてくることがあります。

ところが、彼らは、自分のことについて「社会的分類」で自己紹介をすることはできても、自分の人生や生き方、つまり「物語」をどのように語ったらよいのかわからないのです。

私も高校時代、聾学校に通う生徒に「社会的分類」のまなざしで話したことでお互い理解しあえず、悲しませてしまったことがあります。その生徒の「物語」をきけばよかったと今は思いますが、当時は私自身も自分の「物語」を納得できる形にどのように語ってよいのか正直わからなかったのです。

このように障害のある当事者自身も、「社会的分類」を学んだけれど、じゃあ自分をどのように語ったらよいのか、自分以外の人間の物語をどのようなまなざしできいたらよいのか、結果としてどのようにお互いにより深く本質的に理解しあえるのかについて学んだり誰かに支えられながら実践する機会は意外に多くないのではと思います。

そう考えると、「社会的分類」だけでなく個の「物語」を理解する/語るということを、学校や障害当事者団体などで学べたらいいと思うわけです。

それができたら、「社会的分類」に支配されたまなざしから解放され、より一人ひとりの人間の生の「物語」に共感的に理解することで、未来に向けて共同で新たな「物語」へ更新していけるのではないでしょうか。

その点からも私が実践しているコンサルテーションでは、「社会的分類」のまなざしは全く持ち込まず(先生方からそのまなざしが出てきたら議論の外においておきます)、その人の「物語」をきめ細かな事実観察に基づいて仮に代弁し、その仮説をその人との係わりでどのように確かめるか、その人とより理解しあうためにどのような係わりが必要なのかを先生方といつも議論しているわけです。

「教育」のように障害のある方々とともに仕事したり生活したりして係わる機会が多い立場にいる場合は、「社会的分類」のまなざしで自分と他者を表面的かつ安易に分けようとするのなら、その方との真の「共生」が実現する日はやってこないと肝に銘じなければならないでしょう。