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宿命とは「自由の所産」という話。

これまで聴覚障害のある当事者として、研究、教育、運動など実に様々なことを実践してきました。しかし、これらを実践している時は、まるで常に目に見えない「鎖」に縛られているような「宿命」をいつも感じていたものです。

また、過去に起きた偶発的な出来事は後から振り返ってみれば必然的な過程として作られたものだ、というふうに見えてしまうこともあります。これをドイツの哲学者ヘーゲルは「理性の狡知」といいます。そんなわけで一層「宿命」の重さを感じてしまうことも。

しかし実は「宿命」とは「自由の所産」と考えることができるのだ、とフランスの政治哲学者デュピュイの深い洞察に出会いました。

未来に起きうると想定した出来事に至る「宿命」自体は、私たちの現在の――言い換えれば未来の出来事にとっての過去の――「自由な選択の所産」とみなすことができる、といっているのです。

だから、未来に起きうると想定した出来事に繋げる、あるいはその出来事を避けるための選択の自由は行使できる(自分の手でコントロールできる)のだということになるわけです。

これまで「これは宿命なのか」と閉塞感を覚えてしまっていたのは、その時点だけで出来事を見てしまうからなのですね。そうではなく時間軸を引き延ばして考えればよかったのです。

そうすれば、その時点(現在)と未来とを繋げる(あるいは繋げることを避ける)「自由」な人格として自分が在ることができる。これで、「宿命」という主体に支配された「具格」の立場から、自分が「自由」な人格を持って選択できる「主格」の立場になれるような気がします。「主格」になれば、デュピュイの「自由の所産」を実感できる。

こうして自分を回復し、癒やす力を持つ考えへ更新していきたいものです。