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「先入観」をとり除く。

ある人に会う。その人の外貌、服装、仕草、身分、そして障害や病気などの外的情報が先に入ってくる。その情報から「こういう人ではないか」と判断・認識する。

しかし、この判断・認識の根底にある自分の「知識(見識)」が先行して、その人の「本質」を見えなくする「先入観」を作ってしまうことがあります。

例えば、保育の実践と研究を長年続けてきた津守先生は、次のようなエピソードを紹介しています。

 最近入園したS子は、まだ母親から離れない。母親が部屋に座っていれば、庭から室内へと歩きまわっている。水で遊ぶ子ども、砂場にいる子ども、水の流れにいる子どもなどのところに、ちょっと立ち寄ってはじきに立ち去る。母親は言う。「この子は、いつも落ち着きがないんです。家でも、父親が新聞を読んでいるとちょっとそこにいって新聞をとり上げ、上の子が漫画をみているとそこにゆき、私が雑誌をよんでいるとちょっときてすぐいってしまうんです」
 そこで私は、「この人は落ち着きがないのでしょうか」と問い返した。S子は、砂場にいる子どものところにいって立ち止まり、水と遊んでいる子どものところに立ち寄り、それから私共のところにきて、じきに立ち去る。しかし、よく見ていると、そこにいる人に視線を少しとどめてから次に移っている。
 私はそのことを母親に告げた。この行動を「落ち着きがない」と言うことは、本当はもっと違う行動であるのに、そのようなことばで理解しているに他ならない。「落ち着きがない」という理解の仕方に対して、外なる行動が、子どもにとって内なる意味をもつものであることを考えたいと思ったのである。そして私も一瞬、そのことを考えはじめ、私なりにそれを推察した。
 S子は水のところに最も頻繁にゆく。水で遊んでいる子どもをのぞきこむような具合にして、じきに立ち去る。外的な行動に内なる意味はすでにあらわれている。
 私もS子を部屋の中から見ているだけで、この子どもと親密な関係に入っていない。この目のこの場面では、だれもS子の生活に一緒に参与していない。私もそうである。
 私は、自分がこのような外的行動をとるときの自分の内的世界を想像してみる。パーティーのとき、私は人々の間をうろうろと歩きまわる。だれかと話しこめば、それで歩きまわる行動は終わる。だれかと関心をわかち合い、存在感をともにすれば、そこにとどまるのである。
 S子の世界にもう一歩入ってゆけばどうなるだろうか。こう考えると、私のこの子どもに対する接し方が変わってくる。
 いろいろの人のところに立ち寄って歩きまわる行動を「落ち着きがない」ということばで理解するとき、その子どもの行為の全体を、あるがままに見ることが困難になる。外的行動は、その子ども自身の内的世界を含めた全体の一部分であるにすぎない。外的部分だけをとって、おとなの側から命名するときには、その窓を通しての一面的理解である。しかも、そこで命名されたことばだけが、その子どもを代表するものとしてひとり歩きするならば、子どもの心の中で実際に起こっていることには目を向けずに、そのことばに対する対策だけが論議されることになりかねない。

ある人に関する外的情報と自分の「知識(見識)」で、一方的に「こういう人だ」と命名する。これが相互理解を滞らせることになることもあるわけです。(滞らせたり断ち切ることが目的でそうすることもあるのかもしれませんが…)

しかし、その人と「共に」生きていく場合、自分の「知識(見識)」に相互理解への道筋を滞らせたり断ち切るような「力」が入っていることに敏感になりたいものです。「あ、ちょっと待って。この見方はちょっと違うかもしれない。保留して、もう少しその人のことを見てみよう」というふうに「推察」を深めてみる。それが「先入観」をとり除くことにつながると思います。言うは易く行うは難しですが、日頃からちょっと心がけてみるだけでも何かが変わるかもしれません。

それから、津守先生のようにその人の「生活」を支えるような仕事(福祉、教育など)に携わっている場合は、S子の世界を「推察」するだけにとどまらないのです。その「推察」は果たしてそうなのか、本当はどういうことなのかを、S子との係わり合いで探り、確かめます。つまり、「推察」が見る側の主観のみで解釈するだけで終わらせるのではないこと、「間主観的に」その人のことを見ていきましょうということです。そこで、S子の世界が滞っていたり展開の手がかりが見られたなら、自分がどのように係わればS子の世界は豊かに拡がっていくのかを考えながら係わっていくのです。