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「信頼の履歴」の話。

聴覚障害だけでなくダウン症、自閉症スペクトラム、脳性麻痺、ろう重複障害、重度重複障害など様々な障害を有する子どもたちに出会って、子ども自身が自身の関心ある活動を展開できるように必要な「輔け」をする。また、親御さんや学校教員等にも必要な「輔け」を伝えて、親御さんや学校教員等との関係も形成できるように係わる。

それが「教育」に関わる私の仕事になっている。そうした仕事の中で、子どもたちから「信頼」に関して思いもよらぬことをしてくれることがある。特に、いわゆる言語をまだ持っていなく、人との係わり合いにもかなりの不安や緊張を抱えている子どもたち。

子どもは、自ら関心ある活動をしたくてもそのようにできずに行き詰まっている。あるいは、関心ある活動はできているが、そこに自身が納得できるもの、楽しめるものがなかなか出てこないため、しばらく手持ち無沙汰のようになる。展開の糸口が見えず、停滞しているような感じである。

こうした子どもの様子に対してこちらは「この行動を発現すれば、停滞状況を解消でき、展開もできるのではないか」と考えてみることはできる。しかし、子どもは、こちらから「その行動をすればできるよ」と言われても、「はい、わかりました」とできるわけではない。かといって、こちらが肩代わりすると、”こちらがいつでもいること”が前提になるので、安易にそうするわけにもいかない。

まず、その行動ができるのにはどのようなことが条件になるのかを考える。「それはできてあたりまえだ」と考えるだけでは、行動を表層的に捉えているだけで、行動の本質を捉えていないことになる。そうではなく、子どもの側にどのような条件が備わっていて、環境にどのような条件が整っていれば、子どもはその行動を発現できるのか(自ら関心ある活動を実現できるのか)を仮説する。そして「輔け」を実践する。難しそうなら手を引くか、係わりを改める。いつもそのように繊細かつ慎重に係わることを実践している。

そうした実践をしていると、初対面であったり会う回数がまだ少ないにもかかわらず、思いもよらぬことを子どもがしてくれることがある。

子どもがこちらの手に優しく自分の手を置いてきたり、私の背中に回って自分の頬を私の肩にしばらくあてていたり、寝たきりの子どもが手を広げて抱きしめようとしてくる。いずれも穏やかな表情で。人との係わり合いを避けがちな子どもにもそうした行動をしてくれることがある。その様子を見た親御さんや学校教員は、あまり会わない人に対して信頼しているかのような行動を見せるのはめずらしいと口をそろえて言う。

そんなとき、ふとある心理学者のことばを思い出す。

「⼈はいつでも他者の⾏動を⾃⼰の⾏動系列に取り込めるわけではない。分化しない一続きの⾏動の瞬時の間に、他者の⾏動を適時適度に差し挟むことが可能になることで、⼈の⾏動に分化、構造化が起きる。人と⼈との信頼の履歴は、⼈の⾏動展開の瞬時の間に⽣まれる。(中野尚彦,2009)」

つまり、子ども一人ひとりが関心ある活動をうまく展開できず停滞しているとき、子どもの一連の行動の「瞬時」を見逃さずに必要な「輔け」をする。そうして子どもは自分でその活動を進めることができた。子どもはやがてその「輔け」があったこと、それをした人がいることに気づき、やがてその人は信頼に値する人なのだと感じるようになる。「人と人との信頼の履歴」とは、この「瞬時」に必要な「輔け」をしたことで生きることができたことで築かれるものらしい。

もちろん私は、子ども一人ひとりがそのような行動をしてくれることを目指して係わっているわけではない。こちらの「輔け」が子ども一人ひとりにとって必要であったか、また適切であったかは、その「瞬時」の後で子どもがより活動できるようになったかどうかで判断するしかない。また、同じような状況に遭遇した時にその「輔け」を求めてくることも判断材料の1つになる。それが私の「輔け」に対する唯一の客観的な評価であり、私がそこにいる意味はあったかどうかもそうした評価によって確定されるものだと思っている。また、その「輔け」を求めてきた時は、それを「信頼」してくれているのだろうとも捉えている。

しかし、そうした「輔け」が少しでもでき、子ども一人ひとりとの間に「信頼の履歴」も増えた結果として、前述したように子ども一人ひとりが思いもよらぬ行動を発現してくれたことは、「輔け」のみに対する「評価」以上に、「あなたはここにいてもいいですよ」と私の「存在」を「肯定」してくれたように感じてならない。

先の心理学者のことばのように「信頼」というものをめぐって障害のある子どもたちとの係わり合いをもとに深く洞察したものはあまりない。それに「信頼」ということばを安易に美化して扱ってはいけないとも思う。

子どもたちと私との係わり合いの数少ない実践から、「信頼の履歴」とは、お互いの「共感・共有」の体験事実の確定を以て、お互いの存在を肯定していくようになることをいうのではないかと考えている。

そんなふうに子どもたちは、いつも私に「人」と何かについて本質的なことを教えてくれている。本当にありがたいことだと思う。