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「聴者を演じるということ 序論」とろうの子どもたち。

2023年5月6日。東京の北千住駅近くにある「BUoY」で開催された「~視覚で世界を捉えるひとびと」というアートプロジェクトに行きました。

そこで発表された作品の1つに「聴者を演じるということ 序論」がありました。この作品は數見陽子さんと山田真樹さんが役者として出演し、演出家は牧原依里さんで、舞台監督は雫境さん。全員ろう者です。ろうの役者2名がクライエントを見送った社員2名がカフェでやりとりする場面で演じるのですが、興味深いのはその社員2名が聴者という設定です。この作品の発表について、作品紹介のWebページで以下のように述べられています。

牧原は今回、あらたにパフォーマンス作品の制作に挑む。観客は今まで「個人」とされてきた「聴者」がカテゴリーで括られることを目撃する。演じる人はろう者役者の數見陽子と山田真樹。ろう者の身体で演じられる「聴者」に、私たちはどこまで言及することができるのか。演じる者と演じられる者、その関係を超越し、分かち合うことは可能なのか。

これまで国内の映画やドラマでは聴者俳優が「ろう者」を演じることが多く、視聴したろう者から賛否両論が出ていました。否定的な意見を見ると、「ろう者」を演じているとは思えないという指摘が主でした。翻ってこの作品は、逆にろうの役者が「聴者」を演じるというものであり、参加者の中にはろう者や聴者など様々な参加者がいます。前述の映画やドラマに対する賛否両論が今回の作品ではどうなるのか非常に興味を持ちました。実際、様々な反応が見られ、「聴者」とは一体どういう者なのか考えさせられました。もしこの作品の発表が聾学校で行われたのなら、「聴者」に対するろうの子どもたちと聴者の教員の捉え方は同一のカテゴリーなのか、異なるとしたらそれぞれどのように「聴者」とはこういうものだとカテゴリー化しているのかを見てみたいと思いました。

それから、ろうの子どもたちの教育や心理に関わる仕事をしている立場で深く考えさせられたことがあります。
少し心理学の話をします。心理学者ユングは「ペルソナ」という概念を作りました。その用語はもともと古典の演劇で役者が用いる仮面のことです。ユングはそれを「人間の外的側面」、すなわち「仮面」という意味で使いました。私たちは、生まれたときから親、親戚、友達、教員、上司など様々な他者に出会い、その他者との相互作用を円滑にするために、その他者向けの仮面をかぶって役割を演じています。例えば、親に対しては「物わかりのいい子」であろうと役割を演じるかもしれないし、教員に対しては「真面目に勉強する子」として評価されるように演じるかもしれません。そして演じ方は、実際の親や教員など様々な他者との関係性によって作られます。こうして私たちは時と場面に応じて演じ分けることを身につけます。
こうした経験を重ねて「私」はこういう者なのだというアイデンティティ(同一性)を形成します。ですから「ろう者のアイデンティティ」も、ろう者全員一様ではありません。実際に関わった親など様々な他者との関係によって、ろう者一人ひとりに固有の「ろう者のアイデンティティ」が形成されているはずです。
このように「演じる」こと自体は、演劇、映画やドラマなどいわゆる表現の世界だけでなく、日常の世界でも行われているのです。「演じる者と演じられる者」の関係は、日常における親子、教師と児童生徒、上司と部下などにおいて「育てる者と育てられる者」の関係ともつながっているといっていいでしょう。

この「ペルソナ」の話をしたのは、上記の作品の後に行われたアフタートークと関係があります。「聴者」を演じたろう役者が印象に残ることを語ったのです。日本語に翻訳すれば「(聴者を演じるのが)苦痛だった」でしょうか。その理由は、簡潔に言えば、聴者の身体や振る舞いは、ろう者の身体や振る舞いと比べて、目、顔、身体の動きが非常に少ない故に、ろう者の身体や振る舞いが不意に出てしまわないように強く意識し、何度も何度も「抑制」しなければならなかったとのことです。 その瞬間、ろうの子どもたちのことが思い起こされました。それこそ、まさに日常の世界で演じ分けるろうの子どもたちの身体の内なる「悲鳴」に他ならないと感じたからです。

ろうの子どもたちは、生まれたときから「聴者」の身体や振る舞いを持っているわけではありません。むしろ視覚と手指を使って外界と相互作用する身体や振る舞いを自ずと身につけていると思います。そして、ろう者の親など手話話者とコミュニケーションすることで、手話を使う身体や振る舞い(言語・非言語含む)も身につけます。
ところが、聾学校では長年ろうの子どもたちに手話の使用を禁止し、口で話すことや耳で聴くことを身につけさせる言語指導や音楽教育などを実施していました。現在も聾学校によっては手話の使用に消極的であったり子どもがつい手話で話そうと持ち上げた手を自ら下げて音声で話す場面を見かけるなど様々な問題状況が見られます。自立活動でも、聴者社会のマナーを身につけるように指導されます。公の場でそのように演じることを指導されていると言ってもいいかもしれません。一方、ろう者社会のマナーを身につけるように指導されることはあまりないので、意識化されにくいです。

このように学校や職場等が聴者多数の社会であるために、表情をオーバーにせず、仕草や動作も控えめにし、自分では確認できない音をなるべく立てないようにするなど「聴者」らしく「仮面」をつけ、「身体」も「聴者」らしく演じることを強く求められがちです。そこでは演じ分ける者の主体性が抑圧され、やむを得ず「演じさせられて」いることが起こっているということかもしれません。手話使用の禁止のように単に手話で会話ができないだけではありません。身体全体ががんじがらめになります。そんな身体の「悲鳴」を外に向かってあげることも許されないまま、じわじわと蝕まれる。自分らしく振舞えない苦しさ。そうした言語化されない感覚的な出来事が凝縮された形で今回の作品が出されたように感じました。表現の世界だけではない、日常の世界でもすでに起こっているんだ、そして聴者のように演じる(演じさせられる)ことはどれほど難しく、どれ程の苦痛が伴うものなのか、という非常に深刻かつ重大な問題を提起しているようです。

そのように身体全体で直感的に感じられたのはこの作品がアートだからなのでしょう。アートは表現媒体が自由です。例えば、研究論文の表現媒体は基本的に「文字」ですが、アートは映像、演劇、絵画、建築などなどなんでもよいのです。それがアートの強みです。表現者(アーティスト)は、そうした表現媒体の自由性を最大限に発揮して何か(現実に起こっている何らかの問題も含む)を表現し、鑑賞者に何らかの作用を及ぼします。
もし「聴者を演じるということ 序論」を研究論文という方法で表現できるかと問われたらそれは無理です。なぜなら作品自体が「身体」の問題を扱っているテーマであり、それは「演じる」という身体表現という表現媒体でなければ対話できないものだからです。もちろん研究論文もアートでは表現できない強みがあります。今回の作品のように、手話を用いるろう者の「身体」や「言語・非言語」をめぐる様々な事象をアートによって表現されることで、研究論文の新たな構想を得るきっかけにつながることがあるはずです。このようにろう者の「身体」などをめぐって「アート」と「研究」の対話的な関係が生まれたら一層新たな可能性を見出せそうです。

また、今回の作品を通して「演出」に潜む問題性についても考えさせられました。演出は、前述の「ペルソナ(仮面)」のように制作者側の意向に沿って演じる者の身体を作っていくようなものだと思うのですが、一つ間違えば、演じる者の身体に公然と暴力を振るってしまうことになりかねないのだと実感できました。暴力装置としての演出です。もちろん今回の作品に関しては、演出家の牧原さんは、ろう役者2名と制作の目的について相互理解し、かつ抑圧-被抑圧の関係にならないよう細やかに配慮しながら進めてきたと思います。演じる者の身体が大切に生かされる演出もあるでしょう。育てる者と育てられる者の関係も然り。
また、日常の世界で個人は色々と演じ分けて生きているのですから、今回の作品のようにろう者がある場面での「聴者」を演じる時、どのような他者との関係を経験し、どのような歴史や社会で演じ分けて生きてきた「聴者」なのかをどのように捉えることになるのかと思いました。聴者が「ろう者」を演じる場合も同じことが言えます。ある人を安易にあるカテゴリーで括ると捉えることが難しくなるでしょう。また、「演じられる者(対象となる者)」についてどのように理解しているのか、そして「演じる者(役者)」に対してどのように演じさせるのか、の2点こそが、演出家にとってより一層突き詰めなければならない課題なのだと思いました。演出家は、例えば、聾学校教員に置き換えることも可能です。つまり、ろう児・者をどのように理解しているのか、ろう児にどのような生き方や振る舞いを教え、伝えるのか、です。

さらに、今回の作品との対話経験をもとに、日常の世界にも一層細やかに目を向けていかねばと思いました。ろうの子どもたちのように、ろう者が「聴者」を演じる(あるいは、演じさせられている)ということがどのように現実に起こっているのか、それはなぜ起こっているのかを社会構造との関係の中で捉え、そこからどのように変革していくかを考える必要がありそうです。

今回の作品は「聴者を演じるということ 序論」でした。ということは「本論」や「結論」もこれから発表されるのかもしれません。楽しみにしています。

「聴者を演じるということ 序論」(牧原依里)