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障害受容というコトバの本質。

障害受容というコトバ。

その本質は、「孤立しているから誰かとつながりたい、でもつながりかたがわからないでいる状態」ではないかと思います。

「障害受容」の研究では、3つだったり5つだったりいくつかの段階というものがあると語られていますが、これもまた、その時の他者や社会との「つながりかた」を抜きにして、「個人」だけを見て段階を考えることは難しいと思います。

障害受容のコトバは、時に支援者、専門家の「上から目線」で使われることもあります。そのような支援者等には、受容してもらえれば自分のしたい支援ができるといった目的や論理が潜んでいるかもしれません。

学生時代に中途障害者の方と語り合った時に、社会を変えたいと考えていた私と、自分自身をどう整理したらよいかわからないでいるその方との間で、エンパワメントを志向した共通の物語を紡ぐことができず、結局一緒に活動できなかったことがあります。

焦りの気持ちから、その方が早く「障害受容」をしてくれたら…いかに「障害受容」してもらえるのか…とつい「上から目線」で見てしまい、それはおかしい、その方の人生を理解しながらどのように一緒に生きるかを考えないといけないのではないかと自省したことがあります。

このように支援者や専門家だけでなく、同じ障害を有する当事者からも「上から目線」が生じてしまうのです。「受容させる-受容する」といったいびつな力関係が働いているなら、自戒を込めて敏感にならないといけないでしょう。

また、障害受容の「障害」は、「身体機能の喪失」を意味することが多いですが、ただ、「喪失」で伴う意味や価値は、おそらく、その時々の他者とのつながりや社会のまなざし、制度やサービス(これらはいわゆる「社会的障壁」)によって左右されます。

ともすれば、支援者等から発せられる「障害受容」のコトバは、前述の「社会的障壁」も追加されたものとして、「仕方ない、これらも受容するしかないよ」という抑圧的メタ・メッセージが必ずしも含まれないとは限りません。

これでは「障害受容」というコトバは、当事者にとって「重荷」あるいは「足枷」となってしまいかねないでしょう。また、当事者はどうしたら他者や社会とつながれるのかといった「作法」が見えずにいるのも現実の問題としてあると思います。

当事者が切に求めているのは、「自分を気にかけてくれる人がいる」「自分は独りじゃない」といった「生の実感」ではないでしょうか。

支援者や専門家は、「障害受容」を自分たちが占有するコトバとして当事者に拙速な変化をおしつけるのではなく、当事者が誰かとつながりにくい状態を作り出している社会的障壁を問題視する必要があるでしょう。

社会的障壁が全くない状況が果たして現実になるかどうかはわかりません。しかしなくなってもらわないと、当事者が「孤立」するような事態はなくならないだろうと思います。「障害受容」をめぐる問題も同じことがいえるでしょう。

ですから支援者や専門家は、「障害受容」を、「孤立しているから誰かとつながりたい、でもつながりかたがわからないでいる状態」と見直し、その人が少しでも希望や可能性を感じられ、誰かとつながっている現実体験を共同で作っていくことを丁寧に実践する必要があるでしょう。その先に、その人なりに納得できる、生きる意味や価値が見えてくるはずです。