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アタッチメントと係わり手のありかた。

アタッチメント。

この用語は「愛着」と翻訳される傾向があります。直訳すると「付着」であり、特定の他者との「近接」を求め、そこが「安全」だと感じている、という意味になります。

いわゆる「愛着障害」と聴覚障害との関係に関する先行文献では、聴覚障害の早期発見後、聴覚障害を医学的観点から否定し、コミュニケーションや関係性のありかたを蚊帳の外に置いた言語指導によって母子関係の形成が難しくなったとされる事例報告があります。

1歳半頃で発見された私の場合、発見当時の検査では情緒は非常に安定していたとあったので、母子間にアタッチメントは形成されていたようです。しかしその後の言語指導の影響でしばらくアタッチメント行動は観察されず。小学3年の時に、両親が私の主体性を丁寧に大切にしていこうと育児の方針を変更してくれたことで、再びアタッチメント行動(例えば、母の身体に密着するなど)を発現。幸いにも母は世間への体裁よりも私の思いを受け入れてくれました。おかげでここは「安全」だと感じられ、精神的な安定を取り戻せたように思います。

ところで現在の仕事で、各種障害の支援学校を回り、学校コンサルテーションをしていると、教員と子どもとの関係性においてもアタッチメント抜きに考えることはできない事例に出会うこともあります。様々な障害のお子さんと長年係わっていらっしゃる中野尚彦先生は、係わり手とは「憑き人」ではないかといいます。つまり、人に憑いて、人に憑かれる、ということです。

これに関して、これまで係わった事例で忘れられないエピソードを1つ。重度の自閉症の男児。対人コミュニケーションが非常に困難で誰にも近寄らず常に警戒しており、水道を見つけるとすぐ駆けつけてバーッと流し続けることをするお子さんでした。いわゆる「こだわり行動」です。

私が初回学校訪問した時も、同様の行動を発現してました。ただ、私は、安易に「こだわり行動」と名付けず、何か意味があって発現しているのだと考えているので、彼にただ憑いて、水を流し続ける様子を傍で見ます。すると、あることがわかってきます。左手と右手を交互に水を当て、しかも掌や各指などの部位に意図的に当てている。どの部位でも当てている時間は短く均等です。それで、彼は、ただ流し続けているのではなく、流れる水の圧の違いを当たる部位を変えることで探り、確かめていたのではないかと思いました。試しに1回だけ私が手を差し入れて水の当たり方を変えると、彼は一瞬軽く驚きますが、しばらく私の手を介した水を受け入れてくれました。

そして最後には、何か納得したようにしばらく1つの手型のままで当て続けています。私は、あ、そろそろ活動を終えようとしているのかなと思い、タイミングを見て/終わり/の手話(担任からその手話はわかると事前に教えてもらいました)をして水道の蛇口を指さしてみる。その手を彼は優しくはらい、少し水を当ててから蛇口をしめて、別のところへ向かいました。その2時間後、給食が終わって彼が落ち着かない状況になった時、突然、立っている私のところに来てしがみつき、胸に自分の顔を埋めました。1分位してから離れ、彼がやりたいと思うところへ落ち着いたように走って去りました。

初対面でまだ3時間位しか一緒にいないのに、そんな私にしがみついてきた。おそらく水道のあの場面で、彼は私を「安全な人」だと感じてくれた、だから自分が不安になった時に私に「接近」して憑いてきた、そういうことになるのかなと思いました。

冒頭で書いたように、アタッチメントは「付着」で、特定の他者との「近接」を求め、そこが「安全」だと感じていると言われる。となると、お子さんとの初期の係わり合いでは、まずはお子さんが係わり手を「特定の他者」と認めるかどうかが重要になります。

そのためには係わり手は、お子さんへの「接近」を丁寧に考えたコミュニケーションや関係性のありかたを追求することが求められるでしょう。