永劫回帰は死んだ  ~永劫回帰(永遠回帰)は本当に生の肯定を促すのか~

はじめに

 本稿の目的は、ニーチェ(1844~1900)の言う永劫回帰(永遠回帰)のその生起の仕組みに対して科学などの観点から不可能だと示すことではなく、「永劫回帰は実際に起こる」ということを一旦認めた上でその思想上の問題を明らかにすることである。言うなれば、背理法の形式の検証である。では、その「思想上の問題」とは何かと言えば、私の達した結論によると「永劫回帰の何たるかをよく検証すれば、実は、永劫回帰には各人に自身の人生を肯定させるインセンティブはない」ということだ。
 また、永劫回帰の解釈には議論の余地があるだろうから、本稿では私の考えついたあらゆる解釈における永劫回帰について検証する。ちなみに、あらゆる解釈とは言っても、例えば、回帰するものは「選択的」だとするドゥルーズの解釈(1)は、ニーチェ自身の提示した、一切は回帰するという永劫回帰観にあまりに反するので本稿では取り上げない。


永劫回帰の何たるかと意義

 まず、永劫回帰の何たるかについては、これをニーチェ自身が簡潔に提示している以下の箇所を本稿では参考にする。

「お前が現に生き、また生きてきたこの人生を、いま一度、いなさらに無数度にわたって、お前は生きねばならぬだろう。そこに新たな何ものもなく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽、あらゆる思想と嘆息、お前の人生の言いつくせぬ巨細のことども一切が、お前の身に回帰しなければならぬ。しかも何から何までことごとく同じ順序と脈絡にしたがって(以下略)」(2)

要するに永劫回帰とは、人の人生や世界の歴史の大筋のみならず各瞬間の苦痛・快楽・思想など人の内面の些細なことまでもが、今の人生の終わった後も全く同じ順序で繰り返され、さらにその人生と世界の繰り返しが無限回続くということである。
 そして、ニーチェはこの回帰を各人に生の肯定を促すものとして示した。

「あなたがたがかつて、ある一度のことを二度あれと欲したことがあるなら。『これは気に入った。幸福よ!束の間よ!瞬間よ!』と一度だけ言ったことがあるなら、あなたがたは一切がもどってくることを欲したのだ!
(中略)
―あなたがた永遠の者よ、この世を永遠に、常に、愛しなさい!そして嘆きに対しても言うがいい。『終わってくれ、しかしまた戻ってきてくれ!』と。なぜなら、すべてのよろこびは
―永遠を欲するからだ。」(3)

要するに、先ほどの永劫回帰の定義と組み合わせて考えると、「人生は永遠に同様に繰り返される(つまり、天国も最後の審判もあり得ない)から、みなさん自分の人生を肯定しましょう」とニーチェは伝えたいわけだ。

論証

 冒頭で述べた通り、この我が永劫回帰批判は背理法の形式を取る。つまり、「永劫回帰が実際に起こり、最後の審判も輪廻転生も解脱もない」とまず仮定した上で、永遠に回帰する世界の内に生きる人間についてあらゆる永劫回帰解釈の下でよく検証し、「よく考えれば結局は永劫回帰には人生を肯定させるインセンティブはない」ことを示す。まず、各永劫回帰解釈が、形式的な論証の上で矛盾するかを検証する。

 (i)自我の自覚が継承されない場合:
まず、「前の世界の『人間の自我の自己同一の自覚』が次の世界へと継承されない」(注1)という解釈の永劫回帰について検証する。この場合、例えばn回目の世界を生きる徳川家康(1543~1616)と、(n+1)回目の世界(注2)を生きる徳川家康は、確かに、寸分違わぬ人生を送り、その内面でも寸分違わぬ苦楽を体験する。しかし、自我の自覚が繋がっていないから、前者の家康と後者の家康は、結局は無関係の他人である。家康同士の間で「自分の人生」は繰り返されていないのだ。つまり、自分と寸分違わぬ他人が自分と寸分違わぬ人生を生きるに過ぎず、「自分の人生」が自分の内においては一度も繰り返されない。また、仮にn回目と人生の(n+1)回目の人生で異なる部分があろうとも、各家康は互いに無関係である。よって、この永劫回帰解釈と、「自分自身がまさに無限回同じ人生を体験するのだから、今の人生を肯定せよ」という教えとは両立しない。

(注1)自我の自覚について補足するが、混み入った話なので哲学に疎い読者は読み飛ばして構わない。ここで言う「自我」とは、心理的自我、つまり、意識内容として思惟の対象になるようないわゆる自我ではない。あくまで超越論的自我であり、各人にとっての現実世界を成り立たせ秩序付ける「統一者」としての根本的自我である。

(注2)始まりも終わりもなく永遠に回帰する世界には”n回目”という回帰の回数すら存在しないだろうが、本稿では便宜上回数で呼ぶ。

(ii)自我の自覚が継承される場合:

(ii)-1 自我の自覚が継承され、且つ記憶は継承されない場合:
この場合、n回目の世界の家康と(n+1)回目の世界の家康とは自己同一の自覚の繋がりがある。しかし、前の世界の記憶は次の世界の人生へ全く受け継がれない。ならば、(n-1)回目の世界の家康、n回目の世界の家康、(n+1)回目の世界の家康にとって、自身の人生はそれぞれ実質的には「初めて体験すること」のみで構成されるようなものだ。これでは自分自身が同じ人生を繰り返し体験していないも同じである。また、仮にn回目の人生と(n+1)回目の人生に異なる部分があろうと、記憶は継承されないので各家康は互いに実質無関係である。よって、(i)の場合と同じく、この永劫回帰解釈は人に生の肯定を促し得ない。

(ii)-2 自我の自覚が継承され、且つ記憶も継承される場合:

(ii)-2-1 自我の自覚が継承され、且つ記憶も継承され、人がその記憶通りの人生を再現することを選ぶ場合:
この場合、各回の人生で家康は、「前と同じ人生」を体験しているということを意識しながら前と同じ人生を体験することになる。よって、この永劫回帰解釈は、「自分自身が同じ人生を無限回体験することになるから、今の人生を肯定せよ」というニーチェの教えとの間に、形式的な論理としては矛盾がない。

(ii)-2-2 自我の自覚が継承され、且つ記憶も継承され、人がその記憶通りの人生を再現しないことを選ぶ場合:
この場合、例えば家康が子どもを何人持つかということすら前の人生とは異なる選択をすることも起こり得る。つまり、n回目の世界には生まれた人間が(n+1)回目の世界には生まれないということすら起こり得るということだ。逆も然り。回帰の回数によってはある人間が存在したりしなかったりするのでは、一切は回帰するというニーチェ自身の永劫回帰観と全く両立しない。また、子どもの誕生の有無という大規模な歴史改変でなくとも、記憶の継承の影響で少しでも以前の世界での自分の人生と異なる選択をしたり、ある瞬間に異なる感覚や感情を体験したりした時点で、この永劫回帰解釈は、人の内面の現象も含めて一切は回帰するというニーチェの永劫回帰観に反する。

(ii)-3 自我の自覚が継承され、且つ前の人生に関する偽りの記憶を植え付けられる場合:

(ii)-3-1自我の自覚が継承され、且つ前の人生に関する偽りの記憶を植え付けられ、その記憶に影響されて結果的に前の人生と全く同じ行動を取る場合:
これはどのような永劫回帰解釈かというと、「前の人生に関する偽りの記憶を持たされることで、人はその記憶通りの人生を回避する行動をとり、結果的に毎回寸分違わぬ人生を送る」という解釈である。この場合、確かに、家康の人生を外から客観的に見れば、家康は同じ人生を繰り返していると言える。しかし、当の家康本人は「前の人生と異なる選択を取る人生」を体験するのである。この解釈の永劫回帰は、「自分が自分の人生を繰り返し体験する」ことを前提としたニーチェの教えとは両立しない。

(ii)-3-2 自我の自覚が継承され、且つ前の人生に関する偽りの記憶を植え付けられ、人はその記憶通りの人生を選ぶという場合:
この場合、確かに家康本人にとっては実質的には「前回と同じ人生」を体験するようなものだ。しかし、偽りの記憶と同様の人生を送るための選択をとるということは、前回の人生とは異なる人生を送るということであり、一切は同様に回帰するとしたニーチェ自身の永劫回帰観に反している。

 ここまで、あらゆる解釈の下での永劫回帰観が、形式的な論理において、自己矛盾に陥っていないか、また、ニーチェの人生肯定の教えと両立するか否かについて検証してきた。前述の通り、(ii)-2-1だけは論理的矛盾がない。しかし、(ii)-2-1の永劫回帰観を、ここでより実際的な問題としての論理の篩にかける。つまり、現に生きる我々人間は、「前の人生の記憶を保持し、その人生をまた再現して生きていく」ものだろうかということだ。この人生再現者を自称する者は確かに世に少数のみいるかもしれないが、それでは「永劫回帰故に人生を肯定せよ」というのは万人にとっての教えとなる可能性は全くない。また、「今の人生では前の人生の記憶はなくとも、次の人生では今の人生の記憶を持つかもしれない」と反論されるかもしれないが、ニーチェによると永劫回帰には「初めもなければ終わりもない」(4)のであり、今の世界もまた「一回目の始点の世界」ではないので、今の人生に前の人生の記憶がなければ今の人生の記憶は次の人生へも回帰しないこととなる。
 加えて、「あくまでこの稿の論証を知った者だけが『永劫回帰は生の肯定に繋がらない』と納得するだけであって、そうでない者は依然として永劫回帰を生の肯定の教えと結び付けるだろう」と指摘されるかもしれない。しかし、それは逆に言えば、「人生は繰り返されるから、人生を肯定しなさい」というニーチェの教えは、本稿の論証程度で根拠を失う教えだということだ。


想定される最も根本的な反論への我が反論

更に、我が論証に対して、「そもそもニーチェは認識論や論理学のあり方すら批判したから、この稿の論証はニーチェの思想を取り扱う上で全く不適当ではないか」という根本的反論が寄せられるかもしれない。しかし、ニーチェが認識論に懐疑的ならば、私に言わせれば、当のニーチェが認識論とは無縁でもない永劫回帰なるものを提示したことにそもそも非がある。「人は人生の全てを永遠に繰り返し体験する」と言うからには、それを体験する者自身がいかに体験するかの問題が疎かになってはならないはずだ。また、論理について言えば、ニーチェ自身の思想も何らかの論理によっているのであり、本稿のみを論理に頼っているからと言って批判するのはニーチェへの擁護としても自己矛盾に陥った主張である。

参考文献

(1) 『ニーチェ』ジル・ドゥルーズ著、湯浅博雄訳、筑摩書房、1998
(2)『悦ばしき知識』ニーチェ著、信太正三訳、筑摩書房、1993
(3)『ツァラトゥストラはこう言った(下)』ニーチェ著、氷上英廣訳、岩波書店、1970
(4)『権力への意志(下)』ニーチェ著、原佑訳、筑摩書房、1993




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