明日、僕は死ぬ

 僕は、明日死ぬ。なぜそう思うのか分からない。でも、明日とうとう死を迎えてしまうこと、それだけは分かる。なぜか、確信してしまっているのだ。死を迎えること、この世界から消えてしまうこと、それはとても怖いことだと思っていた。しかし、不思議と不安はない。人生やり残したいことだらけだ。息子がこれからどんな生き方をしていくのか、孫はどんな子に育っていくのか、ひ孫もそう。子どもたちが大きくなっていった時、この地球はどんな風になっているんだろう、地球に安心して住み続けられるのか、正直分からない。

 僕が小さい頃は、不景気だ、不景気だ、と騒がれていた。2000年後半に入り、好景気になったと思っても、やれリーマンショックだ、やれ東日本大震災だ、と騒がれていた。同時は、AIの技術が発展し始めたところで、シンギュラリティーだ、ロボットが人間の仕事を奪うんだ、地球の食糧がなくなってしまう、そんな危機ばかりが騒がれていた。

 今思うと、滑稽なものだ。その時代、その時代に、時代の危機感を皆が喚起していく。みな、「今の時代は特別だ」と時代に意味付けをしていく。でも、その前には、9.11 があったし、バブル崩壊、ソ連崩壊と第三次世界大戦の危機、原発問題、第二次世界大戦等、常にこの世界は危機だらけだ。人類が産まれて以来、「危機」のなかった時代など存在しない。

 そんな世界を僕たちは生き抜いてきた。

 でも、死を前にして考えると、結局今思うことはシンプルだ。生涯付きそうことになった、さおりの笑顔をまた見たい。さおりと会えなくなること、それが寂しい。喧嘩も、仲直りも、デートも、結婚も、子育ても、すべての瞬間がかけがえのないものだった。人生で一番多くの時間と記憶を共有しているパートナー、それがさおりなのかもしれない。難しいこと、複雑なこと、わけのわからないことばかりに取り組んできた人生だったが、結局、最後の最後に考えることは、本当にシンプルらしい。

 僕はいま、病院のベッドにいる。頭は動いている。周りの声が聞こえている。でも、声を出せない、身体を動かせない。みな、僕は、意識を失っていて、危篤状態だと思っている。誰しもが、大丈夫か、大丈夫か、と声をかけてくる。正直、隣でうるさい。そんなに隣で騒ぐなよ、と思う。息子や子どもたちですら、涙を流しながら声をかけてくる。いや、だから聞こえてるよ、と言ってやりたい。もしそう言えるのなら。

 さおりだけだ。さおりだけは、僕の目が動かなくても、僕の身体が動かなくても、僕の口と機械が繋がって無理やり呼吸をしていても、彼女だけは僕に言葉が届いている事がわかっている。彼女の左手が僕の手の上に乗ってくる。右手も乗ってくる。しわだらけだ。でも温かい。身体の痛みがなくなっていく気がする。

 後輩達、友人たち、みんなが死なないで、死なないで、と叫んでいる。みな、目が赤い。でも、僕はみんなに言ってやりたい。死ぬことはそんなに悪いことじゃないぞって。死んでもまた会える。むしろ、みんなを見守ることも出来る。この物体が支配する世界においては、確かに肉体で触れ合うことはできなくなる。でも、死とは終わりではない。始まりなのだ。死は、生と生のつなぎ目でしかない。いまの生を終えることで、次の生に迎えるのだ。本当は、みなで祝うことなのに。だから、本当は、みんなに祝って欲しい。やり残したこと、やりたいことは山のようにある。けれど、僕は僕の人生、一切の悔いはない。いつ死んでもいいように、人に媚びず、社会に媚びず、その時の自分の直感にのみしたがって生きてきた。やりたいことはその瞬間に全部挑戦してきた。ぼくは、自分の人生を誇りに思っている。与えられた人生を生ききってやったぞと。だから、祝ってほしいのだ。 

 でも、身体が動かなくなり、人と会話もできなくなり、この現実において何も影響を及ぼすことができなくなると、暇で仕方なくなる。考えなくていいことも、多少考えてしまう。寂しい気持ちも湧いてくる。だから、自分の人生を振り返ってみたくなる。僕の人生は結局何だったのだろう、この世界に何を残せたのだろう、そんなことをだ。

 正直、一生懸命生きてきたと思う。今生では、自分の肉体・精神・魂の持っている可能性をすべて使いつくした。成功も、失敗も。数限りない挑戦をしてきた。正直、これ以上はできなかった。そう、断言できる。その位、この世界で、この肉体を通して、様々な体験をすることができた。それらの体験ひとつひとつがすべて、この身体に、筋肉に、記憶として焼き付いている。

 自分の人生を生きてきた気がする一方で、すべては循環しているし、僕の人生は僕のものではないとも思う。何かを成し遂げたと思っても、その源流を紐解けば、父が亡くなる直前、母に残してくれた言葉、「いい子にするな」にすべてが宿っていた。その願いをもとに、母は僕を育てた。自由に、奔放に、いい子にならないように。父や母だけではない、この人生で出会ってきた仲間達、同志達、ひとりひとりとの出会い、会話、すべてが今の僕を形作っている。

 もちろん、ポイントポイントでは、自分で意思決定をしてきたつもりだ。東京を離れて離島に行く時、震災直後に東北に行く時、アーティストとしての人生を始めたとき。しかし、今思えば、すべては自分がそういう人生を歩むことを決めてこの世界に降り立っていたと感じるし、僕の人生は、「直感」という名のお役目をただただ自分なりの方法で果たしてきた人生だったなと感じる。

 すべては自分で決めているし、同時にすべては決められているのだ。

 ただ僕は、自分の創りたい世界に向けて、自分の命を燃やしながら生きてきた。創りたい世界への情熱と、自分への情熱を持って。一瞬一瞬、自分のいのちが、身体全体が、細胞ひとつひとつが叫ぶような、喜ぶような、そんな時間を積み上げてきた。生き続けてきた。

 どれだけ将来が不安であろうと、どれだけ未知なる道が怖かろうと、未だない道を創り、歩み続けてきた。それがたとえその時代の常識からはずれようと、みなが違うといおうと、地球で自分以外の誰一人が認めてくれなかろうと、自分で勇気を持って決断と行動を積み重ねてきた。

 だから、人生がはじめから決まっていようと、僕がどこからかの遣いであろうと、僕は、自分の人生に深い誇りを持っている。だから、一切の後悔はない人生だったと言い切れるのだ。

 僕個人においては今まで考えてきた通りだ。しかし、他の人にとっては、この世界にとっては、地球にとっては、僕の人生は、どんな意味があったのだろうか。そもそも、意味などないのかもしれない。僕がいようといないと、この世界は何も変わっていなかったかもしれない。僕がいなければ、僕がやったことを、他の人がやっただけな気がしないでもない。

 しかし、やっぱり、死ぬ間際には、人間は人生に意味をもたせたくなってしまうらしい。この人生で何度、この問いを自分に向けてみたかわからない。でも、改めて、死ぬ前にもう一度だけ、最後の最後に自分に問うてみよう。

「僕の人生にはどんな意味があったのか。この世界は僕の人生に何を求め、それに僕は人生を通じてどう応えてきたのだろうか。」

 ふと思考を停止させてみる(まわりからは危篤状態に思われているので不思議な感覚だが)。

 直感的に湧いてきた言葉。

 それは、この世界の美しさを人に届けること。僕の知っているこの世界、いやこの地球の美しさをありとあらゆる人に届け続けること。それは、人々の外の世界に潜んでいる。外を飛ぶチョウチョに、海岸沿いにある砂浜の砂一粒に、森の中の植物ひとつひとつに。同時に、人々の中にも美しさは潜んでいる。この美しさに触れたとき、身体が反応してしまう。

 昔から大好きなアニメがある。宮崎駿のもののけ姫だ。主人公のアシタカが、サンという狼とともに育ち人間に深い恨みを持っているキャラクターが、アシタカの喉にナイフを突き立てる。その時、サンを見て、アシタカは言う。

「生きろ、そなたは美しい。」

 この言葉にすべてが埋め込まれている。アシタカは、この世界ではじめて、サンに美しさを見つけた。他の人間たちは、憎しみにまみれた存在だと認識していたのに、アシタカだけは違ったのだ。一方で、アシタカは敵を剣で倒すこともする。優しさだけでもない、厳しさだけでもない、双方を兼ね揃えている。しかし、優しさと厳しさの奥に持っているのは、「曇なき眼で見て、見定める」という言葉に代表されるように、真実を見つめる目だ。

 私は、アシタカのように、この世界の誰も気づいていない美しさに気づき、ナイフを喉元に突きつけられても自分の信念を貫き、この世界の真実に光を当て、この世界の美しさの総量を増やしていく。ただ、それだけをやってきたのだ。ぼくもそうありたいと20代の時に願い今まで生きてきた。

 高校生までは、本当に田舎をでたことのない、何の教養も知識もないこどもだった。あったのは、「難しくて」「分からなくて」「新しいことが好き」という特徴だけだった。そして大学時代、ストレートで大学受験も成功し、国家一種試験も合格している中で、いわゆる、テスト的なものや、優等生としての道を普通に歩んでいるようにも見えた。

 けれど、「深さが足りない」、そう同じタイミングで複数の年上の人に言われたのが大きな転機となった。このまままっすぐ人生を進んではだめだ、自分なりの人生を切り開いていけない、そう考え始めて、道を外れた。気付いたら、NPOの立ち上げに大学で関わり、そのまま起業すると思ったら立ち上げに失敗した(いまでは、日本有数の超有名NPOになっているが)。そして、ご縁があり、当時ソーシャルイノベーションで有名だった島根県隠岐郡海士町へ移住した。

 今思えば、あれが転機だった。いまとなっては、昔で言う世銀の代わりを作ると当時から豪語していた、しんてじゅんさんに「負けを認める事」を教えてもらい、人生ではじめて、本当の負けを認めて、自分をありのままの自分として捉え、生きていくことを決意した。離島に行く時、すべてを捨てて飛び込んだ。松島宏佑という一人の人間として生きること、それを始めて行ったタイミングだった。そして震災が起き、怒涛の人生は止まらない。被災した宮城を1週間で出るはずが、1ヶ月になり、1年になり、4年になった。創業したNPO二つは、ともに地域に無くてはならない存在になった。2018年に某著名な財団主催の社会貢献賞を受賞したことを皮切りに、「新しい公共」の担い手として、宮城県南部の未来づくりに深く貢献している。いまでは、彼らがきっかけとなり、100以上のNPO、企業が産まれている。

 その後、東北の活動時に出会い誘われていたコンサルティング会社にも数年ほど在籍した。東北でNPOを経営し事業を推進していたが、ビジネスモデルとして構築できないことから始まる悪循環がどうしようもなく、それを乗り越えたい、そんな自分になりたい、そう思っての挑戦だった。しかし、今思えばそんなことは嘘だった。ビジネスモデルが答えではなかったといまでは断言できる。しかし、当時はそう思い込んでいた。すべて短い時間で解決すればいいわけではない、時間をかけて育んでいくものもあっていいのだ。単にあのときの若い自分が短期間でのインパクトを求めていただけだったと思う。

 今思えば、東北の活動も、コンサルティング会社の活動も、すべてがうまくいかないと思っていた。自然に広がるのではなく、どこか閉じていく感覚。勝手に広がるのではなく、しまっていく感覚。その狭間で相当悩んでいた。そして、様々な内的変化を伴うトランジッションを経て、「本当に創りたい世界」を初めて作れたのは、妻とのウェディングだったと思う。

 自分の思う美しさをそのまま実現した瞬間。

 あのときのコンセプトは、「カラフル」「おらんとう」「深呼吸」「はらっぱとすみっこ」の4つ。おそらくあの時、自分の身体が、何かと繋がってしまっていたのだと思う。僕は理性的に話をするから何を話したか忘れることはあまりないのだが、あの時ばかりはまったくもう記憶がない。自分の言葉のようで、自分の言葉ではなかった感覚。

 それからは、この世界観を、ビジネスの現場で、社会の現場で、家族の現場で、またコンセプト、サービス、プロダクトもあれば、創作、詩、アート作品、様々な形で、「ビジョン」を形にしてきた。

 僕が作りたい世界は、29歳のときに決めたそのものだ。

「すべてのいのちが、人が、生き物が、地球が、いのちを感じ合う世界を創りたい」

 ただその世界を創りたくて、僕は自分の人生をかけてきた。その流れで、デザインファームにジョインすることになった。

 イノベーション、デザイン、クリエイティブ、なんというか、僕の今までの人生では、嫌いで嫌いでしょうがなかった言葉だ。離島にいても、東北にいても、かっこいい言葉を使う人で、本当に現実を変える人に出会うことは殆どなかったからだ。そういう言葉を使う人ほど、都会では活躍しているように見えるのかもしれないけれど、実際に現実の社会を動かしているようには当時の僕には見えなかった。

 でも、自分が好きではなかった、できるだけ使わないようにしてきたカタカナの世界に自分の身を置くことになった。一番印象的だったのは、あるメディア系企業のビジョンデザインの仕事だった。

 僕の人生において初めて、クライアント先で号泣してしまった仕事だった。僕のコンサルティングの眼差しは、すべてもとマーサーという米系コンサルティングファームの東アジアの元代表の古森さんから来ている。人生初のコンサルティング案件が、古森さんの下での案件だったのが、あの時にコンサルティングを続けられる人とそうでない人の差として、「いいお客さんと出会えるか、それがすべて。特に初めの2年でクライアントと抱き合えるような関係を築けるかどうか、そういう人間は長く続くんだ。」といっていた。

 ビジョンデザインの案件では、すべてのプロジェクトが終わった時に、直接のクライアントから、「最後の一週間、松島さんの後ろには何かがついていた」「本当に神がかっていた」という言葉をもらったが、その意味で、僕がビジネスの案件ではじめて、自分のお役目を果たせた感覚がした仕事だった。

 ウェディングで起きたことと同じことがビジネスの現場で起きたのだ。僕の身体は、多分に巫女のようなところがある。ウェディングのときもそうだし、メディア企業のビジョンデザインのときもそう。僕の身体を通して出現しようとしている何かがある。それが本当に顕れるときというのは、どうしようもないほどに自分の体は疲弊するが、人事を尽くしきった後、重い扉が拓く瞬間がある。

 ここで、言及しなければいけないことがある。それは、自分が「クリエイター」であることを受け入れたときのことだ。仲間たちを連れて、アメリカの西海岸の地で降りてきたビジョン。ちなみに、この「クリエイター」とは、世間一般的に言われる新しいサービスやプロダクトを作る人のことを指してはいない。文字通り、「創造主」という意味だ。世界を創造する人間として、僕は自分がクリエイターであることを受け入れた。

 そして、その流れで、当時ぼくの秘書であり、コーチであり、巫女として僕への神託を授けてくれる女性から、サハラ砂漠にいざなわれ、そこでふと僕は決意した。

 「小説を書く。神話を作らなければならない。」と。

 そして同時に、2018年の目標をデザインファームでプロとして仕事をできるデザイナーになること、同時にアーティストとして自分の作品を作り出す作り手になること、という二つの目標を設定した。

 実際に、達成した。思っているよりも簡単に、気付いたら達成していた。そこからの人生はもうめぐるましかった。それまでは、「人の問題を解決する」「人の悩みに寄り添う」というスタンスだったものが、大きく変わっていった。

 自分が表現したいものを表現し、自分が創りたい世界を創りたい仲間と作っていく。

 そういう風に大きく変化していったからだ。

 この意味では、クリエイターとしての自分の人生は、まさに2019年に本格的に始まったと言える。ぼくが大学生で占いなんて一切信じていなかったときからの友人で、僕の未来を占ってくれた友人が言っていた言葉がすべて正しかった。

 彼は、ぼくが「34歳で出世(世に出る)する」と予言していた。

 2018年、ぼくは31歳だった。デザイナーでありアーティストとしての顔を持ち始めた。このときはまだ、デザイナーは金を稼ぐ表の顔であり、アーティストは裏の顔であった。しかし、アーティストとしてきちんと立ち始めれば立ち始めるほど、状況は大きく変化してきた。

 つまり、「相手の課題」から始まるのではなくて、「創りたい世界観」から始まるようになったのだ。そうして、今まであの世とこの世を繋ぐお役目と言ってもいいし、神からの遣いといってもいいけれど、それが立場や環境に関わらず実現できるようになっていった。

 2019年、僕は32歳。デザイナー、アーティストといった顔が統合されていった。新たに「ビジョンアルケミスト」という肩書を名乗るようになっていた。僕が通ると、僕が関わると、皆が自分の才能を発揮できる、自分の魂が喜ぶ天職に向かっていく、ひとりひとりが自分の人生の表現者としてのクリエイターになっていく、そういう想いを込めて付けた肩書だ。

 次第に、自分なりのスタイルの仕事がどんどんできて、松島宏佑としての仕事が増えていった。

 それをひたすら続けたのが2020年。そしてオリンピック後、一気に不景気が到来する中、それまでに積み重ねてきた表現やプロダクトが世の中を捉えるようになった。それまで、ごくごく一部の人にしか届いていなかったものが、時代が変わったときに、今までの作品が大きく取り上げられるようになった

 1つ目の転換点は森のウェディングだった。そして、2つ目は、メディアのビジョンデザインの仕事。最後に3つ目は、2018年12月に開催した、poetry hackers の個展だ。当時、僕は「詩が生まれる瞬間」に興味を持っていた。

 僕の周りで急に詩を書き始める人達が増えたからだ。そして、詩を書く行為とは、天と地をつなぐ行為だし、この世とあの世がつながる行為だと思っていた。そして、そういうものは人の心の深いところに届く。

 それを表現するアート作品を仲間たちと作った。誰もアーティストとして活動したことのないメンバーの集団。開催した12月。本当にたくさんの人が来てくれた。しかし、僕が嬉しかったのはその人数ではない。お母さんに無理やり連れてこられていたように見える女の子が、僕たちの作品を見て涙を流していたのだ。

 どうしてもこらえきれず、「どうしたの?」と聞いてしまった。その時彼女はこう答えた。

「分からないの。なんで涙が出てきたのか。でもね、身体全体が震えちゃったの。気付いたら、涙が流れてしまってたの。細かいことは分からないよ。でも、普段いじめられてて辛いことばっかりだけど、こんなに綺麗なものがあるんだって、今日初めて知ったよ。私、本当にこの世界に産まれてよかった。」

 あの時以来、ぼくはただ同じ光景を見たくて、その子の魂に触れるものを創りたくて、小説、詩、サービス、プロダクト、会社、NPO、もう出来ることは何でもやってきた。ただただ、僕の手がけたものを見て、本当の美しさに気づく人が一人でも増えたら嬉しい。そして、多くの人に本当の美しさにふれて欲しい。その美しさを知ってしまうと、人生が大きく変わってしまうような、もう昔の自分には戻れない、そんななにかだ。

 2018年12月22日〜24日に第一回の展示を開催。そして2019年、その展示をニューヨークで開催した。今考えても本当にアホだったなと思うが、若気の至りで実現してよかったなと思う。ニューヨークでは理解されないことも多かったけれど、確実に何人かの心には深く届いていた気がする。あのとき、日本全国、いや世界に届くものを作れるかもしれない、いや作るんだ、というビジョンがどんどん大きくなっていた。

 そして、上では述べなかったが、僕に大きな、大きなインパクトを残しているのが、熊野だ。上で書いたベイエリアの話も、展示も、詩を描き始めたのも、僕のトランジッションが起きたのも、実はすべて熊野が関係している。

 ここでは長くなってしまうので記述しないが、熊野の影響は大きい。2019年にニューヨークで個展を開催したといったが、その流れで、2019年、熊野にクリエイタービレッジを作った。住人が0人になった、超限界集落をどうにかして欲しいという相談が友人に届き、それを受けて始めたプロジェクトだ。映像、脚本、写真、エンジニア、デザイナー、料理、様々なクリエイターがこの地に集まり、「詩が生まれる瞬間」を共有し、新しい表現を作っていった。

 熊野は、神道が日本に入る前からの日本にある、八百万の神、自然信仰といった、日本古来の精神が残っている土地だ。熊野に拠点を置くことにした poetry hack も、熊野での着想を東京で、世界で展示し続けた。クリエイタービレッジには外国人がたくさん訪れるようになった。

 日本初の精神を世界に。東洋初の精神を世界に。

 それが始まっていった。これを始めたのが2019年、本格的に作品を創り始めたのが2020年、世界に作品を届け始めたのが2021年。おしむらくも、占い師の友人が予言した34歳でのことだった。

 これらは、僕の裏の顔での仕事だった。ほとんど収入には繋がらず、寄付を募ったりしながら作品を作り続けていた。

 一方で、その裏側では、デザインファームでの仕事を続けていた。正直、悩んでいた。なぜ、大企業のために自分の時間を使うのか、本質的な意味で僕は大企業のために自分の時間を使うことに意味があるのか、もっと創りたい世界を作るためにできることがあるのではないか、と。

 しかし、どの企業にも、僕のような感性と世界観を持っている人がいることに気がついた。孤立しているし、つらい思いはしているが、辺境から世界は変わるのだ。どこの組織にも、地域にも、辺境はある。僕はそういう人たちと出会い続けた。デザインファームがそういった機会を提供してくれた。

 そもそも、コンサルティングをこれからも仕事としてやるかをなやんでいる時に、コーチの女性が、「あなたの魂の仕事は詩を書くこと。それ以外の仕事は何でもいい。どんな仕事でも、あなただから滲み出るものは在る。頼まれたらお役目としてやりなさい。」とアドバイスをくれた。これが心の支えになっていた。

 結果的に何が起きてきたのか。

 それぞれの会社が、社会変化の中で本当に自分たちが注力すべき「存在意義」に直面するようなプロジェクトが始まっていった。時代が変わる中で、自分たちはなぜ存在しているのか?世界は自分たちに何を求めているのか?その厳しすぎる問いに直面しながらも、答えを見出していった。

 それを、[ビジョンデザイン]という形式で、みなビジョンを作っていった。組織の中で、新しい言葉を、新しい物語を生み出していった。物語とは一度産まれてしまうともう後戻りができなくなってしまう。それが起きていった。

 その中で、「ビジョン」に限らず、様々な企業が、単に売れる商品を作るにとどまらず、自分たちの存在意義を試すためのアーティスティックな活動を始めるようになった。そう、本当のビジョンに立ち向かうために、世の中への問いかけを行うようになっていった。

 スペキュラティブデザインと呼ばれる文脈で本当に今の世界は人間中心になっているのか世界に問いを提示し、同時にインクルーシブデザインの文脈で今まで「世界」に存在しなかった人たちを、今の世界に統合していった。

 つまり、今までの「世界」には存在しなかった「世界」と「人」を捉え、それを現実世界に統合する仕事を行っていた。プロセスを整え、文脈を整え、土台を耕し、文化を作る。その世界を先導していった。

 このとき、僕は「ビジョンアルケミスト」という新しい役割を広げていた。そして、更にその先には、「見えないもの」や、「人に限らない自然界」の共存が必要になる。一言で言えば、八百万の世界だし、熊野の世界だ。これは僕がアーティストとして、熊野クリエーターズビレッジを通して実現していった。

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「こうすけ、起きて。」

 あ、さおりの言葉が聞こえる。涙を探して叫んでいる。

 少し、夢をみていたようだ。死ぬ前には走馬灯のように過去が走り抜けるというが、そのとおりなのかもしれない。でもまだあれから数十年分を見ることができていない。もう一度目を閉じたら、また見ることができるのかな。それとも、もう目を開けることができないのだろうか。

 一番最初の問いに戻る。

 結局、僕の人生とは何だったのだろうか。
 
 それは、人間はみなクリエイティブだということ。アーティストと呼ばれる人、デザイナーと呼ばれる人、クリエイターと呼ばれる人だけがクリエイティブなんじゃない。この世に生を受け、この世に存在する人間はみな創造的な存在であること。みな、この世界の真実とつながることが出来るし、そこで生み出せる作品は他の人達を感動させることができる。それは誰しもができることなんだ、そのことを当たり前にするための人生だったのかもしれない。

 え、なぜかって。

 それは、私は地球であり、地球は私だから。母なる地球は、もっと美しい自分を見たがっている。それを、遣い手としての僕が、人間の中に抑圧されている美しさを解放させ、爆発させ、地球の美しさを、母なる地球も触れることが出来るようにする。

それがぼくの人生だったのかもしれない。

最後に一言。さおり、ぼくに幸せを有難う。

2018/09/20 

Kosuke

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