自分が無意識に囚われていたこと。

最近、自分自身が作り出してきていた世界観に超敏感になる機会がありました。今まで自分の29年の人生で起きてきたことが、それでスパーンとすべて説明できてしまいそうな、それほどの衝撃がありました。

それは、文字通り「世界観」についての気づきです。「世界観」とは、「世界を観る」と書きます。つまり、この世界がどうなっているか、ではなくて、僕自身が世界をどう「観て」、どう「認識」していたか、これを突きつけられたのです。

そうした時に、改めて自分が使っていた言葉に、無意識に自分の世界観が投影されていたかもしれない、そう思い、10年近く前からぼちぼち書いてきた自分のブログを見なおしてみました。

下記、自分の世界観、メンタルモデル、感情についてのブログ文章抜粋したメモです。

怒り、悲しみ。自分の感情について。

自分の感情に蓋をしてしまっているなぜ自分の感情に蓋をしているんだろう?それとも、そもそも感じなくなっているのだろうか?どちらかわからないけどおそらく自分自身を守るためなんだろうね。受け入れすぎると自分が壊れることがわかっていて、だから感情に蓋をしたのだと思う。
僕は、何が侵される(失われる)と、許せないんだろう大切にしたいことは、「わたしは何を大切にしたいんだろう?」という問から生まれると思っていた。でも、違うかも、と思った。「わたしは、何が侵されると、許せないんだろう?」という問のほうがコアがあぶり出される、ということを学んだ。
長続きしない怒りの感情何らかの「怒り」の感情が湧いてきても、なぜ僕はそう感じているんだ?と自分自身に問うことで、外部に対する怒りは和らぎ、自分の内面と向き合うことになります。結果、怒りの感情は長続きしません。従って、人にも優しくなれている気がしますし、久々にお会いする方からは、「いい顔するようになりましたね」言われることが多く、プライベートも趣味も充実しており、いわゆる「幸せな状態」にあります。
雑念を取り払う雑念というか昨日あの人にこんなこと言われていらっとしたとか、仕事でだれだれさんに迷惑かけてるんだよなとか、いまちょっと自信ないんだよなとか。こういった感情が自分を支配すると、目の前のことに集中できない感じがある。
悲しみ、悲しみ、悲しみ。悲しみてなんだ。僕は、「悲しむ」という感情がよく分かりません。「悲しむこと」をテーマに一ヶ月弱過ごしてみました。しかし、なんとも不思議なことに、「悲しめない」のです。喜怒哀楽。喜べるし、怒れるし、楽しめる。けれど、悲しむことができなかったのです。

自分を覆っていた恐れ。自分の闇。自己破壊衝動。

小さいころからよく見る夢怖くて怖くて嫌だった夢。最近またこの種の夢を見ることが増えてきました。  正体不明で、恐ろしくて、どう逃げようとしても、追いかけ続けてくる、そんな怪物が出てくる夢です。まさに漫画の世界。その怪物は逃げる僕や身の周りのヒトを追いかけてくる。これらの夢に常に共通しているのは、「絶対に逃げられない」こと。どんなことをしても、どう頑張っても、「逃げられない」のだ。そして、夢が終わる瞬間もだいたい一緒。怪物に追われ続けて、殺される瞬間に目が覚める。小さい頃、この種の夢を見たくなくて、寝るのが嫌だった時期もある程、頻繁に見ていた夢。けれども久しくこういった夢を見ていなかった気がする。けど最近よく見るようになった。「自分のなかにうごめく魔的な欲望からの逃走」「得体のしれない強い不安や怖れへの怯え」。ちっちゃい頃から何か自分にはあるのかな。
幸せになりたいけど、幸せになりたくない。自己破壊衝動。このときの「幸せ」は、「現状に満足できている」という狭義の意味。個人の生き方としては、「足るを知る」が大事と思う。でもね、対社会となったときには、現状満足からは何も産まれん気がするのです。また、昔から「自己破壊衝動」みたいのがあるんだよね。今の自分の価値観とかを全部壊したい衝動にかられるというか…。このとき、ものすごいエネルギーが湧いてくる。幸せから生み出されるエネルギーとは質が全然違う。狂ったように動き出す感じ。
僕と闇光と闇。光って何だ?闇って何だ?新約聖書によると、天地創造の際、主は「光あり」といったそう。でも僕は、光よりも闇に興味がある。大学時代は、物理学科に所属。もともと、宇宙のはじまりを研究したいと思っていた。なぜだろう?(略)僕はその裏に潜む「何も無い真っ暗闇」を見てしまう。吸い込まれそうな闇。この暗闇の先にあるものは何か?そればかりを気にしてしまう。そもそも僕は、「見えないもの、分からないもの、難しいもの」を愛する人間。そして今日の朝、ある結論に至った。「闇」こそが僕の求めていたものではないかと。
抑えられない衝動:「光」でなく「闇」を知ること。「光」の部分は見える。けれど、 「闇」の部分は見えないんだよね。本気でどこかの地域にコミットすることを選択した場合、避けることのできない「闇」。これを知りたくなった。どんどんこの欲求が増してきた。
ダークサイドに落ちる人、落ちない人(絶望の先にあるもの)スター・ウォーズのアナキン・スカイウォーカーだって、ナルトだって、ARMSだって、いまの漫画や映画の中で描写される善悪の「悪」は、元は「善」だったりする。人類が本質的にもっている特性とか(人が人を殺し続けるとか)、社会の特性みたいなものに(戦争がなくならないとか)絶望し、「ダークサイド」におちるわけです。「うーん。絶望を通り越して、一度諦めきったのかもないね。絶望からしか始まらないからね。」「大きく言うと人類への愛かもしれないなー。もっというと自然と共生する人類への愛かな。」最後は「自分が信じているもの」なんだなと。愛か、愛か、愛かと。

父親について。自分が抱えていた悲しみ。

私は実の父のことを何も知らない本当に悲しかった。親が何を考えていたか、もっと知りたいと思った。しかし知ることができなかった。手がかりがないのだ。試しに父親の名前をぐぐってみた。何もでてこない。母曰く、ある事情で、父は自分の名前を隠していたそう。だから、人生の足跡を残すことができなかったらしい。僕は決めた。こどもが出来る予定なんてない。ましてや、結婚の予定なんてない。でも、子どもに伝えたい事がある、だからブログを始めるんだと。いつ自分が死ぬかわからないんだ。将来の奥さんがこどもを身篭った瞬間に自分は死ぬかも知れない。だから、生きた軌跡を残そう。
父が亡くなった歳に追いつきました。「死にたい」ではなく、「死ぬ」。小学校3年生の時だったかな。ある日、何かのきっかけで、僕は父親がいないことを知りました。まったく記憶がないのですが、母曰く、僕は号泣していたらしいです。何に衝撃を受けたって、気付いたら父と同じような人生を歩んでいたということです。生きてきて初めて、「血」の存在を意識した瞬間というか。この頃から自然と僕は、27才に死ぬんだろうなぁ、と思っていて。「死にたい」ではなく、「死ぬ」。
27歳のままの父の墓参りに28歳の息子がいってみた

実家のはずなのに、そわそわしながら墓参りにいきました。かわいいおばあちゃんと渋いおじいちゃんの元気な顔を見た後、ご飯を頂き、チビ達と会話をしてから、父の妹さん達と墓参りへ行きました。

お墓の前に、お線香を置いた後、目をつぶり手を合わせていたら、お姉さん(父の妹)がお墓の前でふとこんな言葉を発しました。

「お兄ちゃん、これで安心だね。」

その言葉を聞いた時、ただただ涙が流れそうになってしまい。なぜかは自分でもよく分かりません。墓参りをきちんとできていなかった申し訳なさからなのか、父の存在を感じて寂しくなったからなのか、父が亡くなった時の年を超え、父があまりにも早くなくなったことを実感したからなのか。

命について、生について、死について。

今を生きること頭と身体のバランスが取れていない。「今を生きていない」状態なのだと思う。ふと、思い出した。海士に行く前、まさに頭と身体がバランス崩して、エネルギー枯渇状態になっていたのだけど、海士での9ヶ月間の充電を経て、東北の激動の2年間に入った。そして2年半が経過。一旦エネルギーが切れたのだろうか。自分でもよく分からない。 
この世に命を受けてよかった「生きていてよかった」と幸せを感じる瞬間はいままであっただろうか。生きていることが当たり前な中で、嬉しい事、楽しいこと、わくわくすることはあったけれども生きていてよかった、命を受けてよかった、と腹の底から思ったのは、生まれて初めてのことのように思う。普段は、いかに価値を出せてかとか、いかに変化を産み出せているかとかで、自分の存在価値を評価している。けれども、サーフィンで美しい景色に出会った瞬間ってそういった「思考」を超越している何かがあって。ただ目の前のものが美しい、と感じる自分がいる。自然だったり、自分なんかよりもはるかに大きなモノに触れた瞬間は、自分の価値とか、相手に認められるか、とかが一瞬どうでも良くなる感じがあって。
死期が近い気がする昨年末から感じていることです。「なぜ」と問われても分かりません。なんとなく、ふと、よく分からんけど、そう思い始めてしまった、としか言いようがありません。「死期」が近づいていたけど、僕じゃないどこかにいったのではないか。たまたま僕に来なかっただけじゃないか。偶然、死は僕を選ばなかったのではないか、そんな気がしています。

自分の作りたい、触れたい世界観について。

ぼくは美しいものに触れ続けたい昨日は夕焼けを海の上で、今日は朝日を海の上で。美しいし、気持ちいいし、もう、最高に幸せ。満員電車とか乗るとこの世界が嫌になるけれども、美しい部分に触れるとこの世界に命を受けてよかったな、と心底思う。この世界は広くて複雑。人間はちっぽけだから世界のすべてに触れることなんてできないけれども自分が触れる世界は選ぶことができるんだからぼくは美しいものに触れ続けたいな。
ぼくは冒険家になりたい。「結局、松島さんて何なんだろうね?」うーん、と考えこんでしまいました。そこでふと言われた一言。そこでふと言われた一言、「冒険家は?」。あぁ、ぼくは冒険家になりたかったのかと。すとん、と腹におちて。僕は、肩肘張って社会課題の解決をしなければ、とかではなく、もっと柔らかく、楽しく、わくわくして、新しい未来つくろうぜ-、みたいなのりが本当は好きで。

変化の兆し。

見ないふりをしてた自分自身の現実。一度固く閉じた扉をあけないとかな。最近「特に悩みがない。」「仕事は楽しいし、プライベートも充実している。」「恐れとかあまりない。」と思っていたのですが、大きな勘違いであることを痛感しました。そう、僕は「見たくない現実」を「存在しない」と思い込むために、都合の良いように解釈していただけでした。僕は、自分自身の「深いところにある何か」に触れて、オープンにすることには、強い、強い抵抗感があります。もしかすると、もうそろそろ、「かたーく閉めてしまった扉」を開ける時期が来たのかもしれません。なぜなら、この扉を開けないと、次の世界には行けない気がするから。とはいえ、ほんと怖いです。自分を見るのって怖い。やだなぁ、そこみるの。でもやらないかんのだろうなぁ。よくよく考えると、何が怖いんだろう。
自分自身を表現したい「自分の中で構築してきた世界観」、これを見える形で表現したい、そんな欲求です。ここでいう「表現」とは、美術作品のような狭い意味の「表現」ではなく、自分という人間をインターフェイスとして外部に起きる変化をすべて含める広義の「表現」の意味で使っています。you are not what you say, but you are what you sell.なぜこのような変化が自分の中で起きてきたんだろう。何かを解決したいとか、いい仕事したいとか、社会を良くしたいとか思ったことはあっても、「自分を表現したい」と思ったのはこれが初めてです。


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