父が僕に残してくれた、たったひとつの言葉。

とうとう30才になりました。あんなに大人だと思っていた30才。実際は、周りの人から「若手」と言われたり、「大学生」と言われたり。自分が思う「30才」らしくなさすぎて、笑えてきた、そんな三十路記念日でした。

そんな僕にも、20代のうちにやっておきたかったけれども、どうしても一歩踏み込めずできていなかったことがありました。それは、「自分のルーツを知る」ことでした。

僕は6年半前、23歳の時にブログを書き始めました。

まつんの(旧)ブログ

1986年生まれの若者が、いつか産まれるこどもに対し、父親の生き様を伝えるためのブログです。

サブタイトルは、いまも変わりません。また、ブログの目的を書いています。長くなりますが、引用してみます。

ブログはじめる理由

ブログを始めた理由:将来の自分の子へ、父親の生き様を伝えるため

しょっぱなから自分の生い立ちを説明してもしょうがないかもしれないですが、あえて記そうと思います。ブログの読者ではなく、将来生まれてくるであろう自分の愛する子へ向けて。

■ 足跡のない父親

私の父は、胃がんで私が1才半のときに亡くなりました。その後、私は祖父母の家庭で小3まで育ったため、いとこを実の兄妹、おじを実の父親と勘違いする、不思議な幼少期を過ごしました。そんな中、先月末に大学卒業を記念し、久々に母親と父方の実家を訪問しました。

そこで、気付かされたことがあります。

 『私は実の父のことを何も知らない』


・父は、学生運動で某大学のリーダーを務めていて、相当やんちゃしていた。やんちゃじゃ済まされないこともしていたらしいそう。しかしのめり込みすぎ、大学に8年間通うが結局卒業せず中退。その後一時的に無職に。その後私が生まれることが決まり職に就く。しかし、半年程度でがんにかかっていることが判明。末期がん。既に手遅れ。

本当に悲しかった。親が何を考えていたか、もっと知りたいと思った。しかし知ることができなかった。手がかりがないのだ。試しに父親の名前をぐぐってみた。何もでてこない。母曰く、ある事情で(詳しく教えてもらえていない)、父は自分の名前を隠していたそう。だから、人生の足跡を残すことができなかったらしい。

だから僕は決めた。こどもが出来る予定なんてない。ましてや、結婚の予定なんてない。でも、子どもに伝えたい事がある、だからブログを始めるんだと。いつ自分が死ぬかわからないんだ。将来の奥さんがこどもを身篭った瞬間に自分は死ぬかも知れない。だから、生きた軌跡を残そう

そう決めた。

僕自身、本当の事実を知るのが怖かったし、母も話したくなさそうな雰囲気を感じる中、自分のルーツである、父のことに深く触れられずに時間ばかりが過ぎていました。けれど、この一年自分と向き合い、この事実を受け入れられる器が整ってきたからか、この年末にやっと、母から、亡くなった父のこと、母と父のこと、母の人生のこと、じっくり話を聞くことができました。

正直、オープンには書けないような話がたくさんありました。僕が漫画やドラマでしか知らない世界がそこにはあって。でも、どうしても、このブログに載せておきたいストーリーが一つだけありました。

「いつか子どもが生まれるという幸運」を授かれた時のために。

父が残してくれた言葉。

父のガンとの闘病記の話を聞いていた時、ふと母がこんなことを口走りました。

「見せたことあると思うけど、お父さんが亡くなる前に、お父さんが宏佑とお母さんに残してくれた手紙があるでしょ。」

驚きました。だって、そんな手紙知らないし...。僕が父に関して知っているのは、「母や周りの人から聞いた姿」と、「写真で見る昔の姿」だけ。父の体格も、顔も、声も、性格も、筆跡も、すべて知りません。

それが、まさか、直筆の手紙があるなんて。僕が小さい頃からいつも見ていた線香立ての横に置いてある父の写真。それを母が写真立てごと持ってきました。裏返すと、何やら古い紙が出てきました。突然のことにかなり戸惑いながら、その紙を広げてみました。

よく分からないけど、涙がこぼれて来ました。あえて文字にしてみます。

もしもの場合、裕美子と宏佑へ

迷惑をかけてばっかりで、何もしてやれなくてごめん。宏佑は、このまま腕白で素直に育ってくれ。大きくなったら大好きなママを守ってあげなさい。

何も残すものがないので、一言だけ。

12月13日 宏

僕は「父から叱られた経験もないし、何か命令されたことはない。」と思っていました。けれど、ひとつだけ命令されていたらしいです。

「宏佑は、このまま腕白で素直に育ってくれ。大きくなったら大好きなママを守ってあげなさい」と。

そして最後の一言。「何も残すものがないので、一言だけ」。

何も残すものがないって...。そんな悲しいことあるのかな。もっともっと言葉を綴ってくれればいいのに。自分が死ぬかもしれない時に綴った言葉がこれだけなんて。

でも、何度も何度も読み返す中で、この限られた言葉に吹き込まれた、父の、深い、深い、想いが、僕の身体の中に、じわーっと広がってきました。

いい子にならなくていい。それは言うな。

母は話を続けました。母は、父が療養していた場所を訪れる際、いつも僕を母方の実家に預け、ひとりで御見舞いにいっていたらしいです。そんなある時、父が母にこんなことを聞いたそうです。

「宏佑には、ここに来る時になんて伝えて来てるの?」

母はこう答えたらしい。

「お父さんのいたいいたい治すために行ってくるからね、いい子にしててね。って伝えてきてるのよ。」

父から返ってきた言葉。

「いい子にならなくていい。そんな必要はない。それは言うな。」

それ以来、父が数ヶ月後に亡くなっても、この言葉が、母の心に、深く深く刻まれていたらしいです。そして、僕はまったく知らなかったけれど、この言葉が僕を育てる指針になっていたとのこと。

僕は、世間的な「いい子」というか、多くの人が「良い」という選択肢を選ばずに生きてきました。新卒無職、その後離島、2年目被災地、3年目起業。自分で言うのも何ですが、人生の節目節目において、人の意見を聞いてるようで聞かずに、「自分の直感」で意思決定してきました。

実際、実は国家公務員になる試験にも合格していながら「離島に行くことにした」という決断を母に伝えた時、母は号泣していました。「なんで、そんなに勉強したのに...」と思ったらしいです。良くも悪くも、「母がいい」と願う道を選んできませんでした。

母と父が強く望んで、母を困らせる位には、「いい子に」ならずに、僕は育てられてきました。僕は、これは母の子育てのお陰だと思っていました。けれど、それだけじゃなかったみたいです。

父の手紙の最後の一文をもう一度読み返してみます。

何も残すものがないので、一言だけ。

そんなことないのに。父の言葉は、母を通して、今の僕に、こんなに深く根付いている。父は死んでも僕の中に生きている。そんなことを、強く、強く、感じました。

僕は、やっぱり父と母の子なんだ。

この時、何とも表現できない嬉しさと、誇らしさみたいな感覚が、ふつふつと湧き上がってきました。

手紙の最後に父の名前が書いてあります。「宏」です。僕の名前は「宏佑」です。父と母は、父の名前から一文字(宏)、母の名前から一文字(佑)をとり、僕の名前をつけました。

そう、そうなんですね。ぼくは誰なのか。僕でしか無い。けれど、ぼくは松島「宏」「佑」なんだ。つまり、「僕は、やっぱり父と母の子」なんだと気づきました。

30才になり、初めて父と母の歩みを深く聞き、父と母の生きた証に触れ、湧いてきたこと。

「僕は、父と母のように、何があっても生きていける力があるんだ」

最後に、父の手紙を見たときにこぼれた涙の理由がわかりました。悲しみもあります。けれど、「父の生」に初めて触れ、「父と母の子供であること」を生まれて初めて身体全体で感じれたこと。その、言葉に出来ないほどの嬉しさもあったんだと思います。

僕は、父と母の子供として、この命を最大限輝かして、この世に生きていきたい。そう、改めて、心に決めた一日になりました。

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