あるものをあるがままに捉えられなくするもの。

「曇りなき眼で見定め、決める」 by アシタカ

もののけ姫でアシタカ大先生が述べる言葉です。数年前、「好きな言葉は?」と聞かれてこの言葉をあげてましたが、今思うとものっすごい深い言葉ですね。今この表現に触れて湧き上がってくる問いは、「なぜ、あることをあるままで捉えられないのか?」です。言い換えると、「何が眼を曇らせてしまうのか?」ということです。

前回、僕自身が自分の内面に深く入っていく冒険を始めたことを書きました。この冒険を進む中、大きな、大きな山が見えてきました。

それは何か。「悲しみ」です。

悲しみ、悲しみ、悲しみ。悲しみてなんだ。

僕は、「悲しむ」という感情がよく分かりません。今まで、「自分て本当に冷たい嫌なやつだなぁ」と思っていました。けれど、安心できる場をともに過ごした仲間から指摘されたことは、僕の認識と大きく異なっていました。

そこで頂いた言葉。「悲しむ気持ちがないというけど、心の奥から深い悲しみを感じる」「混沌、危機を求めてしまい、平和や安らぎの中にいれないのは、そこに触れようとすると深い悲しみが出てくるからではないか」等。

合ってるか合ってないのかよく分かりませんでした。けれど、その後も「悲しむこと」をテーマに一ヶ月弱過ごしてみました。するとなんとも不思議なことに、「悲しめない」のです。喜怒哀楽。喜べるし、怒れるし、楽しめる。けれど、悲しむ(哀しむ)ことができなかったのです。

そこで、やはり「身体に何らかの反応が起きているらしい」ことを自覚しました。そんなことを敬愛するインスさんに相談したら、こんな言葉をもらいました。

悲しみに触れられないという時、色んな場合がある。けど、まっつんの場合は「怒り」がフィルターになって、「悲しみ」が分からなくなっているように見えるよ。だから、まずは「怒ること」からだね。

「ふへぇー」って感じでした。インスさんにもらう言葉は、その時は大体良く分かりません。それは、「頭で理解できないこと」というよりも、「身体が拒否する真実(に近い何か)」を突きつけられるので、身体がそれを受け取ろうとしないのです。

僕は、「怒り」の人?

インスさんには、以前こんな言葉を投げかけられたこともあります。

まっつんは、「怒り」の人。ヤンキーやヤクザみたいにひたすら怒っている。けど、それを見せないようにしている。怒りにふたをしてるんだよね。けれど、はたから見てると、怒りが漏れ出していてのが見える。だから、気持ち悪い。もっと怒っていいんだよ。

自分自身、「怒りの人」という自己認識がなかったのですが、その後昔からの友人 / 知人にこんなこと言われたんだよね、と共有したら、衝撃を受ける反応をもらいました。

「まっつんさんて、機関銃みたいな人だと思ってました(大学時代に数度お会いした友人)」「松島くんとは、ちょっと離れた位の関係がいいな。絶対に上司部下にはなりたくない。泣かせられるし怖いから。(大学時代の友人)」

最後のとどめは妻からの言葉でした・・・。

「今は違うかもだけど、出会った頃は、尖ったナイフみたいだったよね。」「あと、たまに、なんで?と思うくらいに怒ってる時あるよね。普段そんなことないのに、突如として、あまりにも怒り狂ってるからなんでだろう?と前々から思ってた。」

こういう言葉を聞く度に、鈍器で頭ぐわわわーーーーんと殴られた感じになります。脳みそ揺さぶられる感じ。ひとつ確かなことは、インスさんの指摘は但しそうだということでした。

自分の「怒り」について観察してみた。

そこで、僕はどんな時に「怒り」が湧き上がるのか。自己観察してみました。

・若者批判論に代表される、僕自身を含む何らかのテーマについて、「人の話を聞かず」「自分の見方で決めつけ」「自分自身がその世界を作ってきたことに無自覚」な場合、相手を潰しにかかろうとしてしまう。

・僕が魂込めてきた仕事で、大好きな人たちが批判された時。「あいつはやる気がない」「あいつは能力がない」「あいつらには無理だ」と、否定的な言葉をこれでもかと食らった時。自分のことを言われた時も、大好きな人のことを言われた時も怒りが湧きます。けれど、反応は異なっていました。自分のことを言われた時は、飲み込んで話を聞こうとし(抑制する)、大好きな人のことを言われた時は、また相手に食ってかかろうとします。

という話をしたら妻に言われたこと。

「こうすけは、怒ってないのに、怒られているという反応をとることがとても多い。怒りの感情にとっても繊細だよね」

つまり、上の2つの観察の事実と妻の言葉から、僕自身次のような事実が見えてきました。

・相手の「怒り」に対して過剰に反応してしまうこと。
・「怒り」は本当に怒っているかよりも、「僕が相手が怒っていると認識するか」が重要であること。
・具体的な反応としては、対象が僕自身か他者かで異なる。僕の場合は、自分自身の感情を抑制しその場を終わらせようとし(黙り、「ごめんなさい」と謝る」、相手が他者の場合には正論で論理的に相手を潰しにかかろうとする。

僕の眼を曇らせてしまうもの。

ここでアシタカの言葉に戻ります。

「曇りなき眼で見定め、決める」 by アシタカ

「怒り」に対する反応を自己観察して、僕は相手の「怒り」を感じた時に、目の前の現実を歪めて捉えてしまっていることが分かりました。つまり、悲しみに蓋をしているのも、僕の見ている現実の捉え方を変えているのも、「怒り」という感情らしいということです。恐らく、これは僕の中の大切な何かを守るための反応なのでしょう。

なので、次は「自分の怒りの感情に素直」になり、「実際にもっと怒ってみること」にトライしようと思っています。これを出しきった後に、何が見えてくるのか、怖いけど楽しみです。

そして最後に。僕にとっての「怒り」がそうであるように、ひとりひとりの無意識レベルでの「歪み」が積み重なり、集積し、社会の歪みが作られていってしまっているのだろうなと思います。そしてこの領域にアクセスしないまま、「課題解決」と表層的なことをやっても結局作りたい未来は訪れず、行き詰まるなと。

僕は、このひとりひとりの心と社会の歪み、というテーマを深掘りしていきたい。なんとなく、これが当面の自分の生きるテーマになるのではという予感もしています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?