20211218 桂春蝶「芝浜」@日比谷コンベンションホール

何から書くかと言えば、もうこれしかない。
ただただ、すごい「芝浜」だった。

「芝浜」だから、本来は江戸の落語だし、上方に行くと「夢の革財布」という違う演目名になる。上方には芝浜の魚河岸はないから。
で、桂春蝶は「芝浜」を、上方口調で演じ始める。もちろん、技量のある人だから、演じてるところ自体は違和感はないのだけれど、「なぜ、上方口調で芝浜?」という最初の疑問が、出だしの所では残る。
ところが、勝が芝の浜に行く時のひとりごとで、この違和感が徐々に解消されていく。どうやら、勝夫婦は、上方にいられなくなって江戸に来て商売をしていたらしいことが分かる。そして、「増上寺の鐘の音の澄んだ音」で1刻早く起こされたことを知る。ただ魚河岸が閉まっているのでなく、鐘の音で気が付く。そしてこれが結末の伏線にもなっている。
ここからは基本的には本来の「芝浜」の通りに話は進んでいくのだが、すごかったのは、宴会の後、勝が起こされて、革財布を拾ったのは夢だったと、女房が話すところ。上方にいられず江戸に来て、それでもここまではやってこれたというので、勝が本来目利きのできる優秀な魚屋だし、ディテールを明らかにしないけど、何か理由があって、仕事に出なくなったということ、そして、ちゃんと仕事に行けば稼ぎが得られる人だと言うことも、ちゃんと裏付けのある形で語られていく。勝の反論も、聴いた増上寺の鐘の音のリアリティやなんだと、ただあやふやに言いくるめられるのでなくちゃんと財布を拾ったのが現実だったというのだが、「じゃあ、今聞こえているのは?」「……増上寺の鐘の音」のようによりリアリティのある反論で納得させられていく。(そして、長屋で増上寺の鐘の音が聞こえるというのが、さらなる伏線になっている)
などなど、「上方口調で芝浜を語る」という違和感のあるメタな現実の部分を、物語に様々な設定を加えたり変更したりすることで、逆に「なぜこの夫婦は上方口調なのか」という根拠を与えていって、ともすれば噺のあちこちのつじつまがあやふやになりがちな「芝浜」という話に、ものすごいリアリティを与えていっている。これは、3年で店を持つという辺りにも貫かれていて、ちゃんと「時の運、運の流れ」というものをちゃんと細かく説明していっている。

と、そこまで話を詰めていって、さらに終盤。大晦日。革財布が夢でなかったと知らされるところ。勝は怒るんだけど、それはただ革財布の件で金を隠されていたからじゃなくて、江戸に出てこざるを得なくなった事情から、人に欺されることが嫌で、江戸に出てきて唯一頼りにしている女房に欺された、そのことに対する怒り。そこから明らかになる上方に勝がいられなくなった理由、そして、なぜ勝が3年で店を持てるくらいに目利きなのに、魚河岸にも行かずに酒に溺れて身を崩していたのか、と言う理由。
快楽亭ブラック師匠が打ち上げとかで「『芝浜』は酒を悪者にしているし、反省したからってすっぱり酒がやめられるというものではないから、嫌いな話です」と言うことがあったけど、この春蝶の型では、酒そのものに溺れているわけではなかった、だから冒頭でも革財布を拾ってまずは昨日の酒の残りを飲むところで、「こんなに残っていたのか」と驚いていた訳で。勝が身を持ち崩していたのは、酒のせいじゃなくて、商いに行けなくなるような事件があったから。(それを書くと、本当にネタバレになるからそれは実際の噺を聞いてね) そして、その事件の更に大元になる事件で大阪にいられなくなって江戸に出てきた、そしてまた身を落としていくのを目の当たりにする女房。だから、革財布を拾って「仕事をしない」と言い出した勝は、ただの怠け者ではなく、そうやって人間として落ちていく、その底に足が届いたという宣言だったし、このままだと本当にダメになるという切羽詰まった状況だった、というのがよくわかる。
結局、勝は女房を許す、と言うか、感謝する。怒ったのは「大切な人に欺されること」で、その理由が一連で明らかになった。元々、革財布を拾ったときに、女房に「ほんまおおきに」と感謝するくらいに、女房のことは愛していたし、二人きりの江戸の暮らしに欠かせない大切な存在だった。そして、勝は立ち直った、と言うか、「元に戻った」、いや、その3年の間に娘も授かって、御店と家庭、立派なものを手に入れた。大阪にいたとき、その寸前まで行っていた、その大切なものを手に入れた。
最後のサゲは、ただ「芝浜」という噺の型として必要だと言うだけで、ある意味蛇足。

今週、遊雀師匠のオンライン配信で「芝浜」を聞いた感想Twで「「死神」が噺家の考える「サゲ」を競うのと対照的に、「芝浜」はほぼ決まった「サゲ」に向かってどう話を積んでいくか、その腕が問われるのかも知れない。」と書いた。遊雀師匠は、江戸落語の世界で、その細かいディテールを詰んでいって、絶品の「芝浜」を演じた。
そして、桂春蝶、いや、もうこれからは「春蝶師匠」と全くなんの抵抗もなく書ける。「上方口調の芝浜」というかなりの難問を、芸の力、演じる力だけで「こまけぇことはいいんだよ」と押し切ることもできる技量を持って、なお、その噺に破綻を来さないように細かい手を入れエピソードを加え。

サゲが終わり、拍手で送り出した後、しばらく立てなかった。この話は上方言葉で演じないと成立しないくらい完成されていて、芝浜を聴く度にあった違和感を解消し、さらに噺を膨らませた。噺が進むにつれてでてくる違和感、いや、そもそもの「上方言葉の芝浜」というメタな視点で噺の始めからあった違和感が、実は全て伏線で、大晦日にそれが全て回収されていくという、良質の推理小説のような、見事な「春蝶の芝浜」。唯一無二の「芝浜」。

遊雀師匠が「寄席とかだとかけられないから、他に独演会とかのない今年はもうこの1回きり」と言っていたように、ディテールを積み上げられた噺はどうしても長くなる。中入りの時に時計見そびれたから確かなことは分からないけど、おそらく1時間近い上演時間じゃないかなぁ。そして、良質の推理小説のように伏線が張り巡らされたこの噺は、なかなか端折りづらい。ネタ出しするかどうかはともかく、こういう独演会でないとなかなか聴けないかなぁ。二人会でも、これに互する長講大ネタを持った人でないと、一緒にはしづらいだろうしなぁ。
紋四郎くん、これに互するとは言わなくても、負けないくらいのネタをものにして、親子会とかできるようにならないかなぁ。春蝶師匠も、独演会でなく、そうやって後から競う若手が出てこないと、一人我が道を行くのはそれは違う意味でつらいだろうし、下手したら、鳳月くんにその地位をとられちゃうよw

てな感じで。
数年前、年末に繁昌亭か喜楽館で春蝶師匠が「芝浜」かけるというので楽しみにしつつ、調子を崩して(いや、色々病んでるんですよ、あたしもw)聞きそびれていたのは、その後色々手も入っているんだろうけど、こんなにすごい噺でした、と言う感想文。
別に年末に「芝浜」聞きたい訳じゃない(関西人にそういう風習はないのでw)ので、今年は3回。MXでやってた、2005年の談志のスタジオで演じた「芝浜」、今週の「三遊亭遊雀オンライン落語会Vol.5」の「芝浜」。そして、今日の、春蝶の「芝浜」。
正直、談志の芝浜はもう頭から飛んでしまっている。絶対評価なら、遊雀師匠の芝浜も絶品なんだけど、春蝶師匠の芝浜に圧倒されてしまった。今、誰かに「誰の芝浜を聴いたらいい?」と聞かれたら、迷わず春蝶師匠の芝浜と答える。たぶん、その人がその後、普通の江戸の噺家の「芝浜」を聞いても、よほどでないと満足できないだろうというのも予想できるけど、それでもオススメしてしまう。

米粒写経が「芝浜論」(と言う題名の漫才)で、「談志の芝浜は、(前の)東京五輪で変わりゆく東京の原風景を封じ込めた」と評していたけど、春蝶師匠の芝浜は、そこに「上方」という異分子を持ち込んで、新しい「芝浜」を作り上げた。おそらく、継ぐもののない、唯一無二の「芝浜」を。

伯山の「中村仲蔵」じゃないし、今日が初演じゃないけど。
今日、あたしは、「芝浜」が変わる瞬間を見た。

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