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霧慧トァン、DummyMe”以外”の選択肢 『ハーモニー』読解(4)/伊藤計劃研究

 前回までで、「大欠如」には作中技術とストーリー上、両方の意義があると判明した。第4回は、DummyMe以外のどんな技術によって霧慧トァンは雲隠れできたのかを取り上げる。

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『ハーモニー』世界は高度監視社会である。社会評価点から個人の居場所まで、あらゆる情報がネットワーク上に公開されている。その徹底ぶりは凄まじく、プライバシーという言葉さえ公言をはばかられる程だ。そんな社会で、霧慧トァンはどう行方をくらませたのか。

 まず、非公式ソフトのDummyMeはどうだろう。
 こちらはあくまで、健康状況に関しての偽データを送るだけである。具体的な言及では「健康で健全なまっさらの生体データをサーバーに送信することができる」「健康そのものでまっさらな偽の状態を健康コンサルのサーバーに送りつけていました」と、ほぼ同じ内容だ。

 次に考えられるのが、監視システムことWacthMeの機能である。日本編の中盤、霧慧トァンは述べている。消息不明な人間は「WatchMeのロケーション通知をオフにしているのかもしれない」と。
 機能上は、居場所を非公開に出来る。だが霧慧トァンの場合、本当に機能オフで足りたのだろうか

 仮にである、設定次第でネットワークから全面的に切断されるならどうか。機能オフを続けていれば、その個人は追跡不能、つまりプライバシーが確保されることになる。
 つまり、だ。WatchMeのロケーション機能オフ状態でも、その裏でネットワーク接続は続いているのではないか。雲隠れしようとする者にとって、この可能性は看過できない。

 霧慧トァンが身を隠すには、ロケーション機能オフやDummyMeでは不十分だった。では果たして、いかなる方法で雲隠れを果たしたのか。
 実は作中、明確に生きているにも関わらず、システムで追跡できない人間が存在している。それは誰か。長く疎遠となっていた霧慧トァンの父、霧慧ヌァザがそうだ。

 以下は日本編終盤、霧慧トァンが冴紀ケイタ教授に、父の居場所を尋ねる場面である。

「バグダッドじゃなけりゃ、知らん。SearchYouのワールド版で検索したらよかろう」
「しましたよ、それによると、父はこの地球上に存在していません(中略)検索にヒットしないんです。かといって、どの生府の死亡記録にも見つからない。WatchMeのロケーション通知をオフにしているのかもしれないですけど、それにしてはずっと引っ掛からない」   

『ハーモニー』文庫p166

 霧慧ヌァザなら足取りを消せるのだ。
 娘との再会時には、具体的な手法に触れてもいる。

「十三年間、ここにずっといたの……」
 とわたしは父に向かい合って訊く。父はゆっくりと首を振って、
「時々は外に出もしたがね。この組織が用意してくれるIDがあれば、自分であることを明かさずに世界の大抵の場所には行ける」   

『ハーモニー』文庫p251-252

 だが霧慧トァンとヌァザとでは、一見やり取りする時間がない。再会してすぐ父子の話が始まり、捜査官エリヤ・ヴァシロフに追われる逃避行に入り、そして。普通に読むと、やり取りする時間などなかったように見える。

 ここで参照すべきシーンは2つだ。
 最序盤、サハラ砂漠でのトゥアレグ族とのくだり。
 そしてバグダッド編、ガブリエル・エーディンと面会し別れるくだりだ。

 まずはサハラ砂漠編。霧慧トァンらは治療データを入れたメモリセルを、トゥアレグ族は酒や煙草といった嗜好品を。それぞれ持ち寄り交換し、互いに実利を手にしている。
 やり取りは実物同士である。データまで実物形式である必要はないが、トゥアレグ族がそう望んだからだ。では、本来の受け渡しはどんな方式だったのか。

 WatchMeをインストールしている人間は、自身の肉体を記憶媒体代わりにでき、指先で数秒触れ合うだけでデータのやり取りは済む   

『ハーモニー』文庫p52

 互いにWatchMeをインストールしていたならば、話は早い。
 手を触れさえすれば、情報のやり取りは出来る
のである。

 そして2つ目、バグダッド編中盤。霧慧トァンが、ガブリエル・エーディンに対して仕掛けるシーンだ。

 どうぞよろしく、 と挨拶の握手を交わしてから、 ガブリエル は 待合室のジェリー シートに腰を落ち着ける。 

『ハーモニー』文庫版p229

 わたしはといえば、ガブリエル・エーディンに螺線監察官特権で盗聴用の医療分子を握手の際に仕込んできたばかりだ。  

 『ハーモニー』文庫版p240

 相手に受け取るつもりがなくとも、任意の何かを手渡す機能があること。そして手渡した旨の情報開示は、必ずしも現在進行系でないことが分かる。

 あまりにも分かりにくい事ではある、だが作中の描写を統合したなら、WatchMe経由にて情報をやり取りできる条件が判明するのだ。

 ・互いにWatchMeをインストールしていれば数秒で情報を手渡せる
 ・やり取りには指先を触れ合うだけで良い
 ・情報を手渡すのに相手方の同意は必要ない

 以上を踏まえて、バグダッド編の終盤、霧慧トァンと霧慧ヌァザの逃走劇を見てみよう。

 父さん、こっち、とその手を引きながら、全力で夕暮れの市場の人混みを掻き分けはじめる。(中略)わたしは父さんの手を引っ張りつつ、 雑踏のさらに奥へ奥へと進んで行く。

『ハーモニー』文庫版p275-276

 日本編でのやり取りからは、霧慧ヌァザもまたWatchMeをインストールしていたと分かる。霧慧ヌァザが何らかの情報を手渡す機会はあったのだ。

 では、その内容とは何か。無論、「自分であることを明かさずに世界の大抵の場所には行けるIDである。霧慧トァンは十分、雲隠れする手段を持ち得たと言うことだ。   (続く)

付記:作中に握手シーンは複数あるが、トゥアレグ族との握手の有無は明示されていない。

付記2:霧慧ヌァザが情報を渡していた場合、「組織への連絡ルート」形式だった可能性は低い。組織の他のメンバーは、肝心の霧慧トァンの消息を追えていなかったのだから。

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