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ひとりオムライスの女

かつて暮らしていた街に来たら、どうしても食べたいものがあった。大好物のオムライスだ。

私のエッセイもどき一発目にも記した通り、私はあらゆる食の中でも卵料理には目がない。

どのお店に行ってもまずオムライスに惹かれてしまう私は大学時代、行く先々でオムライスを食べ歩いていた。オムライスさえあれば、ファミレスでも喫茶店でも居酒屋でもどこでも天国になる。その頃好きだったお店の一つには、必ず行っておきたかったのだ。

この街には、美味しいオムライスのお店がいくつもある。ちょうど泊まったホテルのすぐ近くに懐かしのお店があり、私はそこに足を運んでみることにした。


土日だからか、有名居酒屋や寿司屋が立ち並ぶ繁華街は普段以上の賑わいを見せている。ところがビジネス街に一歩踏み入ると、人の気配がすっと引いていくのがわかる。そんな静けさに満ちたビルの一角に、そのお店はある。

店内に入ると、一人なのでカウンター席に通された。カウンター席は未だに慣れず落ち着かないけれど、テーブル席が基本4人掛け以上なので仕方ない。
カウンターにはもう一人常連のおじさんがいて、店員の奥さんとおしゃべりに興じていた。ここは夫婦二人で切り盛りしている日本式洋食屋さんらしい。喫茶店のように古びて落ち着いた店内も、染みついた煙草の匂いも味わい深い。

この日私が頼んだのは、ふわとろたまごのオムライス。常連さんたちの会話をBGMにのんびり待っていたら、奥さんがにこやかな笑顔とともに料理を運んできてくれた。

こういうのでいいんだよこういうので(cv:松重豊)

その名の通りふわとろの半熟卵は、やわらかく甘やかな香りを漂わせている。待っていました、オムライス。

オムライスの完成度はソースによって決まる、と言っても過言ではないだろう。
このオムライスは、添えてあるソースを自分でかけて食べる。上の写真ではわかりにくいけれど、右上の銀色のソースポット(と呼ぶらしい)から早速ソースをたっぷりとかける。

いただきます、と小さく口にするや否や、もう我慢できない!と一口ぱくり。その瞬間、舌いっぱいに広がる卵とケチャップの絶妙な甘じょっぱさと、何よりコクのあるソースの味。

──これは、大人のオムライスだ。

ソースには何が入っているのだろう?色も味もデミグラスベースではあるのだけれど、普通のデミグラスソースとは何かが違う。なんだかこう、鼻の奥に広がる香ばしさがあるのだ。それがこのオムライスを、ただのオムライスでなくさせている。

ほんのりと感じた苦味は、コーヒーのような気もする。あいにく舌には自信がないので、複雑であり、それでいて美しくまとまったソースの中身を解き明かすことはできなかった。だけどそれでよかった。私はここにしかない味を、知ることができたのだから。

美味しいものを食べると手が止まらなくなるのは私の常で、このオムライスも例外ではなかった。ソースはもちろん、卵のなめらかな舌ざわりも、ケチャップライスのシンプルな優しさも、味わいながらも次々と口に運んでしまう。気がつけばあと二口、ああ、あと一口……。

最後の最後、ごはんつぶの欠片かけらまで、私は大人のオムライスを心ゆくまで堪能した。


以前この店に来たときは、元彼が一緒だったことを思い出す。今となっては苦い記憶ばかりが蘇る人だ。本当は来ない方がいいんじゃないかと思っていたけれど、食べ終えた今はまた別の感情が湧きあがってきていた。

私はついにあの頃の記憶を、自分の手で、そして自分一人で塗り替えたのだ。もう私はたった一人で、平気で思い出の場所を歩くことができる。今はその達成感と安心感で胸がいっぱいなのだ。

やっぱり、ここへ来てよかった。私が一歩踏み出すたびに、古い思い出は次々と私の後ろへ流れていく。
そして今度はきっと、もっとまっさらな気持ちでこの地に来ることができるはずだ。そのときは今よりもっと大人になって、今よりも新しい気持ちでここのオムライスを味わえたらいいな、なんて思う。


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