The Refugee(音楽小説連作第6章)

彼女の母親は、いつも疲れた顔をしていた。
母親が俯いていない姿を彼女は見たことが無かった。
だから自然と彼女も同じように俯くばかりの姿勢が身についた。
下を見る生活。
地面に向かう人生。
そこには決して空に向けて開けるような明るい兆しなどは、どこにも見当たる事は無かった。
人は社会的な生き物であり、社会はそこに住まう者に対して潤滑油を要求する。
社会の潤滑油、すなわちカネだ。
単純な事実なだけに、彼女は幼くしてそのことに気がつくことが出来た。
勿論それは彼女がそもそも聡明だったことが原因ではあるのだが、しかしそれは反面、彼女の人生に対して絶望を投げかけるばかりで希望の火を早々に消し去るだけの、意地の悪い嵐の波風のようでもあった。

腹が減ることが日常であれば、飢えは実はそれほど苦にはならない。
何しろ常態で飢えているので、漫然とした飢餓感は確かに覚えるにしても、出来ることなど何も無い事は分かっているし、それが『当たり前』としてそもそも肉体が醒めた認識をするからだ。
ただ、何をするにしてもやる気は減る。
加えて諦めるのが早くなる。

『いつかこの国を出るの』と彼女の母親は口癖のように呟いていた。
ほとんどそれは彼女に対する子守歌で、同時に彼女に絶えずかけられる呪いの言葉でもあった。
『私たちはいつかこの国を出る。「自由の国」に行くの。そこにはとてつもないチャンスがあるわ。あなたを拾い上げてくれる王子様だって、きっとそこには居る。居るの』
彼女はいつも母親が投げかけるそんな言葉を聞いては眠りに落ちて、翌朝一人きりのベッドで目を覚ました。

(お母さん)

と、彼女はいつもいつだって、目覚めるたびに考えた。

(『おとぎ話』は『おとぎ話』だよ。夢ばかり見ていたって明日は変わらないよ。『チャンスの国』は、あたし聞いたけど、残酷なの。虐げられ踏みつぶされた人たちの上に、這い上がりよじ登った人だけが天井から一本だけつるされたバナナを掴めるの。王子様は高級車に乗っているかも知れない。でもそんな王子様が私に声をかけるとしたら、それはきっと『最低な目的』を持っていて、私たちをその『お后様の座』なんかには絶対に座らせてなんてくれないのよ)

ある朝、朝食に堅くなった小さなパンを一切れかじり、水を一杯だけ飲んだ彼女は、とんでもないおんぼろフラットの一室で、ひびが入ってくすみ、濁ったような白みを帯びた窓ガラスからぼんやりと外を眺めた。
灰色の空からはしとしとと雨が落ち、町並みを作る石畳を薄黒く染めていた。
きっとこの雨は石畳の上にぶちまけられた酔っ払いのげろとか、犬のおしっこなんかをある程度流してくれるだろう。
最近続いていた嫌な臭いがもしかすると少し減るかも知れない。
そう考えると彼女の胸の中で、ほんのわずかに気分が軽くなった。
だがそれも本当に束の間のことで、降り続く雨はそのまま電気も無いフラットの中にぼんやりと座り込む彼女の心の中にまでもしみこむかのようにして、その気分を果てしなく昏く落ち込ませた。

それを『異常』と言うべきか、『変化』はその夜に訪れた。
いや、むしろそれは『変化』というよりも、静かな『絶望の訪れ』と言うべきだったのかも知れない。
――その夜、彼女の母親は戻らなかった。
一晩中降り続いた雨はきっと路地の汚物をかなり流しさってくれた。
しかしそれより何より彼女には、母親の不在こそが呪わしかった。
次の夜、真っ暗なフラットの部屋の中で、彼女は起きたときと同じままにぐしゃぐしゃになったベッドのシーツにひとりで丸くくるまった。

翌朝も、また翌朝も、彼女は一人きりで目が覚めた。
彼女の母親はいつまでも戻ってくることは無かった。
10歳の彼女に出来ることは何も無かった。
ただ毎日、起きると一杯の水を飲んで、家の中にある食べられる物をそっとかじって、それすらも無くなったら、体力を奪われないようにとベッドから出ることを極力避けるようになった。

彼女が漠然とした『死』を意識し始めたのは、多分母親が帰らなくなってから2週間後のことだ。
水だけはどうにか毎日飲んでいたが、食べ物はもう1週間何も口にしていない。
シーツからは吸い込まれた彼女の汗が放つ饐えた臭いが放たれ始めていたが、ここでも彼女に出来ることは何も無かった。

(このまま消えてしまったなら、楽になれるのかな)

漠然とそんな考えが間断なく彼女の脳裏を行っては戻った。
呆然とするばかりに彼女の視界の中で、青々とした天に昇った太陽が黄金色の光を地上に振りまく中、彼女のフラットのくすんだ窓ガラスにもその輝きが届くのが見えた。
だけど彼女の横たわるベッドからその輝きが落ちる場所までは一万マイルはありそうなほど遠く遠く感じられた。

『私たちはいつか自由の国に行くの』

と彼女の母親は言った。
ふふ、と彼女は思い出して微笑んだ。
何しろ彼女は母親の言葉は思い出せたのに、母親の顔や仕草、髪型など、そのすがたが一切思い出せなくなっていたからだ。
そしてただその『言葉』が彼女には改めて『福音』でかつ『呪い』のように思われた。

私は『自由の国』に行くの。

『自由の国』では人々は皆幸せで平等なの。

ほんとうの『自由の国』は、『神の国』だわ。

お母さん。私は一人きりでそこに行くのでしょうけど、なんでだろう、まったく――怖くないわ。


そう思い彼女が目を閉じたとき、彼女のフラットの扉がバンと開いた。
しかしそれは荒々しいばかりの乱暴な『解放』で、半ば暴力的ですらあった。
それは母親の行為では無い。
彼女には本能的にそう理解できた。
――では、誰が来たのか?

栄養不足で蕩けるように力が失われた彼女は、ほとんど酩酊しているような弱々しさで、
それでも、どうにか目を開いて力の抜けた首を回し、
開け放たれた扉の方を見ようと懸命に努力した。


 ※


「――レイチェル?」
私は遠くから自分を呼ぶ声に、閉じていた瞼を開いた。
薄暗がりのホテルの部屋で、私の頭を彼の右手が撫でている。
私はそれに微笑んで応え、彼の名前を呼ぶ。
「ロバート」
彼は私の声に満足げに微笑むと、空いていた左手でベッドサイドの『塊』を握った。
それは鉄の塊。
命を奪うことに特化された呪わしい器物。
黒光りするそれは、行為の間中ずっと彼の手の中にあり、時に私を弄んだ。
彼は私にその先端を向けた。
にやにやとした微笑みが、彼が心底からこのおもちゃを好んでいることを私に教える。
およそ良い趣味だとは言えない。
弾倉は六つ。
彼はいつだってその中のひとつに弾を込めている。
おもちゃの先端はゆうっくりと動き私の胸の真ん中に向けられ、彼の人差し指はキリキリと金属がきしむ音を立てながら絞られていく。

彼は、
そのまま、
引き金を引いた。

ガチン、と音がしてそこには弾が入っていなかったことを彼と私に教えた。
すると彼は眉根を寄せて、ひょいと肩をすぼめた。
「お前は『凄い』と思う。本当だよ?」
彼がそんなことを言う。
『何でなんだろう?』と考えて、直後私は『ああ』と気づく。
私はきっと、彼が引き金を絞る間に、今と同じ顔をしていたのだろう。
自分がどんな顔をしているのか、私にはよおく分かる。
私はきっと薄く笑っている。
彼にはそれが剛胆な態度に見えたのだろう。
だけど、
『私』はとうに壊れている。
あの日私は主の御許に、本当にほとんどその御側すれすれまで近づいていたのだ。
あれ以来私は恐怖なんて忘れた。
私に在るのはもはや『福音』では無く、色の濃く昏いばかりの『呪い』だけだ。
天国は無く神は無く母親は無くこの男だけが私のそばにある今、私に出来ることはあるがままを受け入れる、ただそれくらいだ。
薄暗いフラットに一人きりで死ぬ訳では無く明日を夢見ることを止めあるがままで生を受け止めるのならば、私は利用できる物を何でも利用して朝のパンをひたすらかじろうとするだけだ。

そう、それでも私は今ここに在る。
ロンドンという土地は私をすっかり飲み込んで、この男の元で生かしている。
私がここでこうしているのは、自分が生きていく理由が無いのと同じくらい、死ぬ理由が無いからだ。

彼は退屈したのか、私に背を向けてまた眠ってしまった。
黒いおもちゃはベッドサイドに無造作に放り出されている。
私がそれで彼を打つことは無いと信じているからだ。
そして、残念なことにそれはまったくその通りだった。
あのフラットでの2週間を思い出せば、私には彼を撃つことなど絶対に出来ず、彼もそのことを十分以上に承知している。
逃げ場の無い私は彼に拾われ、彼に飼われ、その気まぐれなばかりの庇護の元に生きている。
そう、端的かつ単純に言えば、今の私は武器商人の秘書で情婦に過ぎない。
でも、それが何だというのだろう?
世界は私の立ち位置などお構いなしで、明日が来るのなら、灰色の空はきっとまたこの町を覆い尽くす。

 ※

彼のいびきが聞こえ始めた頃、彼女は彼を見下ろしながら、ふと脳裏によぎった在る単語を口にした。

『アメリカ』

と彼女は彼に聞こえないような小さな声で呟いた。
あの国には、こことは違って鮮やかな空が広がるのだろうか。
『結果的な移民』である彼女の古里で、フラットの窓に向けて指した日差しよりも、まだずっとずっと鮮やかな黄金色の輝きがそこにあるのだろうか。

そこまで考えたところで彼女は頭を一度左右に振って、彼と同じベッドに横になった。

『アメリカ』

今度はもう一度、声に出さずに彼女は唇でそう形作ってみた。
昏いホテルの部屋の中で、彼女の言葉は誰に届くことも無く密やかに消えた。
そして彼女は眠りに落ちた。
明日は日本人のお客が来る。
仕事の上では彼の秘書として、目の下に隈があるような無様な顔つきは見せられない。

眠気に誘われて消えそうな意識の裏側で、彼女は俯くばかりの年老いた女性の姿を見た気がした。
その女性は疲れたような顔をして、彼女に向かって何かを言おうとしているようだったが、眠りに落ちそうな彼女には、もうその女性が誰であるのか判断することも出来なかった。

ただ、

『あれは知らない女性だろう』

と残された彼女の意識の欠片は彼女に向かって、消える瞬間にとても優しくそっとそう囁いた。

<了>

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