「誕生日を知らない女の子ー虐待 その後の子どもたち」黒川祥子​ 集英社


うー!びっくり。
着たくない服を出されて「いやだ」と思った途端、脚を投げ出し、目を見開き、そのまま二時間半人形のようになってしまう女の子。
小学生高学年なのに餃子を食べたことがない。ひとつひとつ分解して中身を調べないと気が済まない。それでも食べられない少年…。
ハッと気付くと自分でも知らぬ間にいつのまにか友達のハムスターを小箱に押し込んで幽閉。持ち歩いている少女。閉じ込められている絵ばかり描いていた彼女。自分がされたことをしているのだろうか…?
友達の肩がぶつかった途端信じられぬほど俊敏に動きその子を殴り飛ばす小学校低学年の少女。かと思えば、ボーっとして返事もしない。何かで注意されると、そこで感情を切ってしまって、フリーズ。何時間も無表情のまま立ち尽くす。記憶も同時に飛ばすので注意された事が積み上がらない…。

かつて親に虐待を受けた子供たちの現在。ノンフィクションライターの著者は、病院や養護施設、里親のもとを訪ね歩く。親と子の相克とか暴力の理由とか、そんなドラマは殆ど語られない。ただ過去に傷を受けた子供たちの”今”だけを活写する。
「活写」と言うのは、はばかられるほど子供たちの現在はいまも生々しい傷そのものなのだけど。そう言いたくなってしまうのは。

殴られ続ける毎日を生き抜くため自分の精神のスイッチを切るやり方を身につけ、それが染み付いちゃっていたとしても。万引きを強要された日々のため、絶えず頭の中で鳴り響く「盗め!」という声に何をおいても従うようになってたとしても。人前で全く喋れなくなっていたとしても。
丸太のような、人形のような、凶暴な動物のようになった子供たちの姿が生き抜くための必死の行いであることが痛感出来るからだ。絞り出すように倒れないように生きる姿はやっぱりエネルギーそのもので。風に揺らいで今にも消えそうなろうそくの火。なのにその焔そのものの美しさには「活写」されてると思ってしまう。子どもたちは素晴らしいのだ。
里親や施設の力で子どもたちが回復して行くところで各章は終わるのだけど、ホッとして涙がこぼれる。「愛情を交わす」ことって何て尊いのだろうと、柄にもなく素直につい考える…そんな本でした。