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渡しておきたいもの

前回の往復書簡
『目には見えない』

信じることの力強さ、そして難しさ。歳を重ね、無垢な人と過ごすこの数年のあいだに、そのどちらもを身にひしと感じるようになったね。まいちゃんの書簡にあった『祈りと望みのあり方』、それこそが信じるということへも繋がっていきそうな気がする。そしてそのあり方が世界と親和する、だなんて、素晴らしくってため息が出ちゃう。まいちゃんの周りで手を繋ぎあったもの達へ、祝福を。

我が家でも、娘たちがサンタさんへのお手紙を作成した週末で、小2の姉の言葉の端々に、そろそろサンタを信じる頃、を脱する気配を感じつつ、『サンタさんは何処から入って来るのか』『どうして誰にもみつからないのか』などの様々のなぜ?を、今姉妹で夢中になっている、ドラえもん、の、ひみつ道具を持ちだしてきて解決を試みていたりして、まだまだ可愛らしくて面白いなと思った。例えば、誰にもみつからないのは透明マントみたいなものを使っているからかもしれない、とか。これも、彼女たちなりの、祈りと望みのあり方、だろうか。

これはわたしのおまじないのようなものなんだけれど、『有り得ない』という言葉を、価値観を、娘たちにはなるべく差し向けないようにしていたりする。だって、『あるかもしれない』ほうが、面白いと思うから。可能性という曖昧な余白に、面白さと、救いを詰め込んで、心のどこかにそっと渡しておいてやりたいなぁと思っている。サンタに限らず。一事が万事。

突然だけれど、子育て四訓、ご存知だろうか?有名だから、子育てをする人はどこかで出会ったことがあるかもしれない。

1、乳児はしっかり肌を離すな
2、幼児は肌を離せ、手を離すな
3、少年は手を離せ、目を離すな
4、青年は目を離せ、心を離すな


少し前に、離れているけれど心は近い、そんな友人たち(ママ友というやつ)と、『子どもに寄り添う』ということについて話した。

例えば、寂しいから一緒に寝て欲しい、とか、登下校についてきてほしい、とかの、些細なこと。周りを見れば、子どもだけで寝られるようになった!というおうちもある中、毎日、毎日、寝付きの悪い長女に付き合って1時間ほどを費やすことの積み重ね。寄り添ってあげたくてやっていることなのだけれど、『勝手に寝てくれないかな…』の苛々と、『ここまで必要かな…』の自問を、毎日自身で宥めながら、寄り添う、というのは、存外メンタルぎりぎり。これは共依存なの?とか疑心暗鬼になってきたりして、『もういいんじゃない?』って誰かに(たぶん家族にも)軽く言われでもしたら、泣くかもしれない。なかなかしんどい。

だけれども。

いざ、『お母さん、もういいよ』って、自立していく瞬間、あぁ、付き合ってやってよかったなぁ。って、心底思うのを、知っているから。(幼稚園にひとり難無く登園して行ったあの日の後ろ姿、とかに思うあの感じ)やはり、その日まで、やってあげたいと思っている。

それが、たくさんの雑味を合わせ抱きながらも子を愛する、わたしたちの総意だった。

四訓にある通り、手を離す日、目を離す日、は、来るから。子どもが望んでいること、それはわたしに与えられるもので、そしていつかは成長の名の下に子どもが求めなくなること、だなんて。あーなんて切な愛おしい。この切な愛おしいをかたわらに、今夜もきっと、長女に足を絡められ飽きずに苛々悶々とざわめきつつ、狭くあたたかな布団で寝るのだろう。サンタさんの来る夜を待ちわびて。

手を、目を、離す時までに、どれほどのことを渡しておけるかな。時間の先の先まで心に残り心を支える何か、は、目に見えるものでは無さそうだな。などと思う。子ども時代の家庭での楽しい時間、安心な気持ち、わたしの心の芯にあるそれらを日々の中で努めて生み育み重ねつつ、やっぱりはっきりとはわからなくて、今日も、娘たちの気持ちの中に想いを凝らす。笑い声の中、いさかいの中、涙の中、などに。

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