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洋梨

今でも時々思い出す。

20歳、まだ背伸びした学生だった頃。
旅の途中に立ち寄った田舎町のとあるバーで寂しく呑んでいた時、たまたま隣に座っていた名も知らないおじさんが話してくれたことを。

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果物ってのはさ、腐りかけがいちばん柔らかくて美味いんだよ。
農家やってる親戚が昔っからさ、箱いっぱいに詰まった洋梨を毎年くれるんだけど、すぐ食べずにしばらく台所に置いてほっとくわけ。
すると熟してだんだんと柔らかくなる。
ヘタあたりを触って柔らかくなったころがいちばんの食べ頃だ。
時々ミスっていくつか本当に腐らせちゃったりして、悪いことしたなあって思うこともあるけどね。
それと、あまり知られてないけど洋梨はワインの原料にもなるんだ。
この店にも洋梨から作られたスパークリングワインが置いてあるから、あとで飲んでみなよ。
シュワッシュワで甘酸っぱくて最高だぜ。

俺は今でこそ薄汚れた作業着の下水道工事員だけど、昔……大昔だな、若い頃は東京都心で広告マンの仕事をやってた。
中規模の代理店の平社員だったけど、景気がアホみたいに右肩あがりだったもんだったからシコタマ稼げた。
ちょうど今の君よりいくつか上くらいの頃だよ。
当時は事業拡大が横行して、どこも人手不足だったんだ。
年功序列とは口先だけで、結局若い新人の方が我侭通せた。
仕事が山ほどあるのに辞められたら困るじゃん?
30分程度の遅刻くらい余裕でやれたさ。どの上司も文句言わないんだから。
ブラック企業が羽振り利かせてる今とはだいぶ違ったね。


その頃はポルシェの928を乗り回してたよ。
20代そこそこの平社員がポルシェの新車をキャッシュで買えたんだ。
裕福だけどいかれた時代だろ?

それで青山あたりで一目惚れして声かけた女の子と付き合うことになってさ。
カシスレッドのボディをピカピカに磨いて、彼女を隣に乗っけて、休日はいつものようにドライブに出かけてたね。
都心は人と車が蟻みたいにたかって混んでるから、そうね、車で走るとしたら湘南あたりが好きでよく行ってたよ。
ドライブ前夜に順番まで考えて録音した、マドンナやスタイルカウンシルが入ったカセットテープを大音響でかけながら、ポルシェの窓をフルオープンにして曲がりくねった道を走るんだ。
びゅんびゅん吹き込んでくる風を浴びてさ。

獣の咆哮みたいな928のエンジンの音、暴風に吹かれたシャツの袖がバタバタと腕を叩く音、スピーカーから飛び出してくるミック・タルボットが弾くシンセの音、そいつらに負けないくらい大きな声で2人で笑うんだ。

そんなんで日が暮れる頃まで遊んだら、2人とも疲れきった身体で、湘南平の展望台によじ登って、アイス食いながら夜景見るんだよ。
ふもとの住宅街の灯りがキラキラ光って、その奥には雲と見分けがつかないような暗くて広い海が広がっててさ。
それを眺めながら「見ろ、人がゴミのようだ」ってよく冗談で言いあってたよ。

首都高に乗って家へと帰る途中、暗い車内ではいつも彼女は寝静まってしまって、昼の騒がしさがまるで嘘のように静かだった。
でもその時間がいちばん幸せだった。
辺りを走る大勢の車のライトやクラクションが、俺らを祝福してるようにも感じられた。
だから夜の渋滞もキライじゃなかった。
対向車のライトに照らされる彼女の寝顔を見つめながら、こんな日々が死ぬまでずっと続けばいいなと思ってた。
心のどこかでそんなことはないとわかっていながら。


破裂は突然やってきた。

それまでイケイケだった経済情勢が突然くるっとひっくり返り、たくさんの札束が泡みたいに吹っ飛んで、自分を取り巻く状況もあっという間に変わった。
悪夢みたいな請求書の山とにらめっこしてるうちに、気づいた時には会社は息絶え、俺は職無しになってた。

彼女とは……プーになる前に別れたよ。
けど、なぜ別れたのか理由はよく覚えてないんだ。
どちらから振ったのかも。
その頃はもう自分のことで手いっぱいで、心身ともにクタクタだったから。
何もかも記憶が曖昧なんだ。
悲しいもんだね、付き合ってた当時のことはあんなに覚えているのにさ。
ウェディングドレスの試着までいったんだけどね。


その後色々とがんばってはみたものの打つ手もなくなり、あれは2月だったかな。
実家があるこっちに帰ってきたんだ。
かつてあぶく銭で手に入れた高級な服やら家具やらをほとんど売っ払って処分し、少しだけ札束で重くなった財布とわずかな手荷物を隣に乗っけた928で道端に雪が積もった下道をのんびり走ってさ。
928だけはどんなに追い込まれようと、意地でも手放せなかった。
移動中、枯れ木だらけの山が流れる景色を眺めながら、虚しさを通り越して笑えてきたよ。
ここまで世界が変わるとはね。そろそろ30になろうとしてた。



地元に戻って少し馴染んできた頃、暇が出来たから気のむくままドライブに出かけたんだ。
ちょうど桜が咲いてきた季節、近くのそこそこ高い山の頂上まで。
車道沿いの桜が咲き乱れる中、カシスレッドの928は田舎の山道では目立ったね。
風が強かったから花びらが散って、目の前のフロントガラスにたくさん張り付いた。
運転しにくくってムカついたよ。
けど思い起こせば、あれは俺と928に対して誰かが用意してくれた花道だったのかもしれない。


頂上について、展望台から周りを眺めたんだ。
平日の昼、辺りに誰も見当たらないサビだらけの展望台から。
ふもとの市街地のビルが本当に小さくて、角砂糖みたいだった。
かつて湘南の丘の上で彼女と2人で見た景色よりも、人が小さく、ゴミのように感じられた。

過去を思い起こしながらその景色を見ていて、ふと悟ったんだ。
あの頃、札束握って恋人と楽しくドライブしてた時代、まさに俺は腐りかけの果物だったんだなと。
いちばん甘い季節を自覚できないまま浪費し、通り過ぎた。
今はもう腐りきって食えない実が転がっているだけだ。

そう思った時、涙が沸き出して、目の前の景色がにじんでいた。
もしかしたら、その時俺は上質のワインみたいに発酵できたのかもしれない。
腐るのも発酵するのも同じ微生物の力で、コインの裏表みたいなもんだからね。


君、今20歳とか言ったね。
いいかい、これから君を待っているのは腐りかけていく宿命なんだ。
でも、腐りかけには腐りかけの時期にしか味わえない甘い蜜があるんだ。
それを嘗め逃すんじゃないよ。
さもなきゃ永遠にワインになれず、くたばって終わってしまうから。

俺のポルシェに乗ってみたいって?
実は山の頂上に登った数日後に、資金作りのため売っちゃったんだ。
景色見てたらなんかあきらめがついちゃってさ。
状態は良かったから、そこそこいい金にはなった。
けど、当時の彼女が座っていたシートクッションは今でも大切に保管してるんだ。
もうカビだらけだけど、時々枕にして寝てるよ。
あいつのケツの香りを思い出しながら。

それとスタイルカウンシルが入った自作のカセットテープも残ってる。
親父の遺品のボロッちいラジカセでかけたりするよ。
最近の楽しみはね、昼寝だね。
家の縁側にラジカセと、元カノの形見のクッションを持ち出して
ガサガサした音質のスタカンを流しながら、クッションを枕にして寝転ぶんだ。
そうして寝転んだまま腐りかけの熟した洋梨をかじるんだよ。最高の時間さ。
風は吹き音楽は流れてるのに、まるで時が止まってしまったような気がするんだよ。
永遠にね。

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あのおじさんと出会ったのはその時が最初で最後だ。
そして、あの夜からもう9年程の月日が経ってしまった。

僕はその後大手企業の企画職に就職できたが人間関係が上手くいかず辞めてしまい、古くからの友人のつてでそこそこ田舎にある農産物直売所で働くことになった。
なんだかんだでここで働き始めてもう4年近くになる。
そして僕の年齢も、そろそろ30になろうとしている。

かつてあのおじさんが口にしていた、腐りかけにしか味わえない甘い蜜は正直未だに味わえた試しがない。
20代の季節はどちらかといえば嫌なことの方が多かったし、交際した相手も2人程度いたが、いずれも何となくつきあい始めて、そして大して盛り上がらないまま何となく別れてしまった。
僕はこのままワインになれず、腐りきって最期朽ち果ててしまうんだろうか。

直売所には日々いろんな野菜や果物が届く。
秋も深まってきたこの時期になると、洋梨もいろんな種類のがドカッと入荷する。
それらを仕分けしていると、いつもあのおじさんのことを思い出す。

おじさんは今頃どうしているのだろう。
まだ家の縁側で、音楽を聴きながらのんびり昼寝を楽しんでいるのだろうか。
それとも止まった時間の中に連れ去られて、もう今この世にはいないのだろうか。
ひょっとしてその後本当にワインになって、近所のスーパーで売られているのだろうか。

僕は思い立った。
今度連休が取れたら、9年ぶりにあの土地へと行ってみよう。



文・表紙:KOSSE
挿絵:ETSU

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