見出し画像

責任には「層」がある【読んだ本】『まとまらない言葉を生きる』荒井裕樹

1.なぜ読んだか?

障害者のかたの発する言葉・言葉にならない言葉をほりさげている文学者・荒井裕樹さんの『まとまらない言葉を生きる』を手にとったのは、タイトルからして、「安易にわかったふりして言語化しない」という、最近強く関心をもっているネガティブ・ケイパビリティに通じるものを感じたからです。

読んだ結果、わたしがこれまでもやもやしていたことの一部について、とるべき方向性が見えました。

※ネガティブ・ケイパビリティについては以下を参照

2.読んで得た気づき


「責任」という言葉には、地層がある。

ということが、この本の「責任には「層」がある」ということで語られています。

取り上げられているのは、水俣病と、水俣病の原因となる水銀を流した「チッソ株式会社」についてです。

水俣病を起こした責任は「チッソ株式会社」にある。
では、なぜチッソ株式会社はそんなことをしてまで操業を続けたのだろうか?
それは社会が、世の中が、チッソの工業製品を求めたからだ。
だとしたら、チッソの責任です、おわり、はおかしいのではないか、そういう化学物質をもとめた私たちにも、ひいては、そういう文面をもとめる人間という生き物にも、責任はあるのではないだろうか?
そうすると、チッソ株式会社の「責任」はないことになるのか?
それは違う。

そういう混沌が、「責任には層がある」という考え方で補助線を引くと、議論があいまいなままに終わらず明確になると思います。

一番の直接的な分厚い責任はチッソにあります。
ただし、私たち、利便性をもとめる一般人にも責任がないわけではありません。
厚さ薄さの違いはあっても、責任は、あらゆる人をおおうようにあるのです。

社会問題をあつかうとき、「薄くても自分にも責任はある」と思うことと、「チッソは海を汚してひどい」と全く他人事と思うことでは、そのあとの行動が全く違ってくるものになると思います。

本書には、「自己責任」という言葉が、他者の痛みへの想像力を鈍くしていく問題についても触れられています。

どんな遠い国の遠い問題でも、自分も責任の層の一部を担っている。
それがロシアによるウクライナ侵攻であっても。

そう捉えておくことで、次のアクションの可動範囲が大きくひろがる気がします。

「責任には層がある」。

絶えず、かみしめておきたい言葉です。

3.惹かれたフレーズ

  • (自己責任について)一般の人たちが、この言葉を使って互いに傷つけあうことで、「他人の痛み」への想像力を削ぎ落としていく

  • 刻まれたおでんは、おでんじゃない

  • 誰かを社会から排除するためじゃなく、誰もが社会にいられるように、「そもそも〜」と言えたほうがよい

  • 僕らは絶対に侵害してはならない一線を守る言葉を急いで積み上げなければならない。誰かの一線を軽んじる社会は、最終的に、誰の一線も守らないのだから。

  • 生きる事は当たり前のことであって、権利以前の問題だからだ。

  • 大切なのは、私と言う小さな主語で考えることです

  • 「地域」じゃない。「隣近所」だ。

  • 希待とは、人間の善性や治癒力を信じ、その可能性を無条件に信頼しようという姿勢のこと。

  • 今悩んでいる人の、その悩みを取り去る鎮痛剤みたいな言葉じゃ無い。むしろ、今悩んでいる人のことを尊重して、今は悩んでいていいよと寄り添うような言葉だ。

  • 人は、自分の想像力の範囲内に収まるものしか評価しない。だから、誰かから評価されると言うのは、その人の想像力の範囲内に収まることなんだよ。人の想像力を超えていきなさい。

  • それが存在してくれていると言う事実があるだけで、救われるような思いを与えてくれるもの。そうしたものの、存在を信じようとする心の働きのようなもの、それが文学だと思う。

  • きっと人には、人の体温でしか温められないものがある。

  • 人と人とはわかりあうことができなくても、お互いにわからない部分を抱えたまま、それでも同じ時と場所を過ごすことに意味があるのだ、と考えることもできる

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?