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この季節 in BuenosAires

この都市でも、またこの季節がやってきました。夏であろうと冬であろうと、春が頭を出したばかりだろうと、関係のない、ミネルバの季節です。さようならの季節です。

ブエノスアイレスへ。あなたは私の愛おしい弟でしょう。恋人はどこまでいっても他人です。ソウルは他人行儀な街でしたが、あなたは懐が広い街です。ブエノスアイレス、あなたの見せるすべての顔を脳に刻みつけられればいいのにと思います。足りない資本と、密度の足りないアート、造りが古すぎて乗客を転ばせるバス、開発されきっていない道並み、幸せそうな人たち。ヘッドフォンをつけて歩きたくない治安と、挨拶がわりの頬のキス。カラフルな植物たち。多様な人種、統一された言語。スタジオとショップとカフェが一緒になった店。建物の骨格は剥き出しなのに、テナントなしなのに、「発展した」灰色の都市たちよりずっと明るく見えます。日光のおかげでしょうか。

あなたの日光は、池の底にいた私にも届くようです。どうにも光しか見えないのです。そんなあなたも、彼らからみたら薄暗い街、サービスの悪い、ボロくさい街。私はそんなこと毛先ほども思ったことがないのが不思議です。ソウルの人たちは、決してソウルは速すぎると、灰色だとは呟きません。ベルリンの人々もしかりです。どうしてあなたの人々はこうもあなたに辛辣なのでしょうか。私は光とゆとりと人間らしい生活しか見えません。幸せは資本の上に成り立つということでしょうか。でも不思議です、資本の狩りは、始めてしまうと、いつまでたっても終わらないのです。

「ブエノスアイレスが好きだ」という起業家の言葉を思い出します。「なんでお前はヨーロッパにでも住まないんだ?と皆にいわれるけれど、ここはどこまでいっても僕の街だもの」。そうなのです。いくら腐りかけていようと、1980年台の麗しさと若さはなくても、ブエノスアイレスは彼の街なのです。同じように、東京は私の街なのです。愛するしか他にないのです。それ以外にどこを家と呼べばいいのでしょう?

都市に対しても様々な意見があることでしょう。W杯優勝で祝い狂う人々をみて「彼らは本当にサッカーしかすがるものがないのだ」と冷ややかな人もいれば「なんて素晴らしい街なんだ」と感動する人もいるでしょう。私はそんなことはどうでもよくて、ただただ軽快なぬくもりに包まれて幸せでした。

ありがとう、ブエノスアイレス。暖かさを、ダンスを、軽快な音楽を。たくさんの人生観を教えてもらいました。他人は変わるけれど変わらないこと。グルーヴに乗れば見えるのに頭で考えたら見えないもの。見えないものも形になること。たくさん「息をしろ」と言われた気がしました。私としてはのんびり過ぎるくらいのペースで歩いているつもりなのですが、どうやら気付かぬうちに息を止めてしまっているみたいなのです。ドラムの先生には「考えるのはやめて感じてみたら?」と言われました。そういえば韓国でも「考えるな」と言われました。もう少し感性の栓をあけてみようと思います。「みんな考えすぎだよ」ブエノスアイレスの人たちは働き者なのにどこか達観しています。そんな彼らがまるでロールモデルな一学期でした。彼らがまた恋しくなります。

さようならを言うことを覚えました。人間、辛いことは避けたいものです。さようならは避けたいものです。目を背けて、何も感じないふりをして飛行機のタラップを踏みました。一時停止をかけた心で遠くなる街並みを眺めました。涙というのは不思議なもので、止め過ぎると枯れてしまいます。泣くということを忘れてしまいます。さようならをいうのが学期ごとに上手くなっている気がします。

一番辛い別れかもしれません。今まで住んだ都市の中で一番遠いです。地球の反対側にいるのです。人々が暖かすぎて、音楽が軽快すぎて、泣いてしまいそうです。一つ返事で向かったコンサートで会ったカップル、美しい踊りたち、葉っぱの匂い、寮の間近のスーパーの前で香をたくおじさん。彼らに私は次いつ会えるのでしょうか。

人生は回り道だと2年前ほどに書いた気がします。本当にその通りなのですが、回って回って同じところに戻ってくるのだから笑ってしまいます。落ちて上がって、また落ちて、一周回って同じところに、いや、1メートルくらい先に、戻ってきます。見慣れた景色にホッとします。この上下に、丘と谷に、あなたがいてくれてよかったです。

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