枢軸時代/エックハルト/フィヒテ

〇枢軸時代
うろ覚えのまま覚書として記す。

クザーヌスの立場は、神から見れば万物の差異は解消されて等しくなる。万物が等しいのだから、我々は一方に優しく他方に厳しく接するべきでなく、誰にも神の命じる愛を為すべきであり、ここに寛容が成立する。多様性が神の名の下に解消される。これは神寄りの視点だ。

フランクの立場は、君も僕も異なる信条を各々有するとしても、共に神の兄弟であり、同じ神に仕える。だから僕が君を差別するのもある君が僕を差別するのも、どちらも避けるべきであり、互いに愛し合うべきであり、ここに寛容が見出される。クザーヌスとは違って、多様性は解消されないが、どれも同じ神を目指す。

このクザーヌスの「一者から他者」からフランクの「他者から一者」への変換は、どうも遠近法以前から遠近法以後への画法の変換に対応するように思う。さらに、これは天動説から地動説への変換にも通じ、のみならずモノフォニー(またはホモフォニー)からポリフォニーへの転換とも呼応する。さらには、カトリック教会による一元的世界支配体制からウェストファリア条約により完成する主権国家体制への変化にも連なる。

この時代もまた枢軸時代だ。枢軸時代は史上規模の大小を問わず、何度も見られる現象だ。

〇キリスト教思想
エックハルトは神の遍在と神との直接的合一を説く。これは必ずしも教会否定ではない。神が遍在するということは神は教会にもいることになり、司祭ならざる一般信徒が神と直接的に合一し得るとしても、合一する場所は自宅でも教会内でもよい。エックハルトの神遍在説も直接的合一説も必ずしも教会否定ではない。しかしながら、神が遍在するならば教会でないところにもおり、また一般信徒が司祭を介在せずに神と直接的に合一できるならば、別に教会がなくとも困らない。こう考えれば、エックハルト説は非教会的にもなり得る思想となる。ここからルターへの流れを見出すのはさほど困難ではない。

〇フィヒテ覚書
フィヒテの事行はカントのいう構成力だと思う。構想力は常時無意識裡に働き人間の諸々の認識を成立させているが、これはフィヒテにおいて事行が意識の根底にあって常に働いていることとパラレルだと思う。そしてこれらはデカルトのコギトに相当する。

デカルトのコギトには二重の意味があると思う。一つは、自分の抱いている観念を絶えず批判的に検討する懐疑的自我であり、もう一つは、そのような絶えざる懐疑的精神を自覚する自我だ。自らの懐疑的精神を自覚したからこそ、第一原理を言語化して定式化できたのだ。前者の懐疑的自我は無意識的であるのに対して、後者の自覚的自我は意識的だ。つまり、第一原理の定式化は無意識の意識化だと言える。そして同じことがカントにもフィヒテにも起こった。

フィヒテは事行を、経験とは無関係であり、すべての意識の基盤であって意識を可能にするもの、とする(知識学第3版英訳p.63)。さらに事行は認識(Knowledge)の基盤であり、抽象化(abstracting reflection)が進行する際の規則ともなる(p.64)。



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