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法然の「一枚起請文」について

ご存じ、法然は念仏宗の唱道者であり浄土宗の開祖であるが、彼は死の三日前に「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」を記した。彼の死後に教えに対する誤解が生じないようにするためである。

唐土(もろこし)我朝(わがちょう)[1]にもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。
又学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、
うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細(しさい)候(そうら)わず。
ただし三心(さんじん)四修(ししゅ)と申すことの候(そうろ)うは、皆決定(けつじょう)して
南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。
この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候(そうろ)うべし。
念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学(がく)すとも、一文不知の愚鈍の身になして、
尼入道(あまにゅうどう)の無智のともがらに同じうして、
智者(ちしゃ)のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。
証の為に両手印をもってす。
浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。源空が所存、この外に全く別義(べつぎ)を存ぜず、
滅後(めつご)の邪義(じゃぎ)をふせがんがために所存をしるし畢(おわ)んぬ。建暦二年正月二十三日 大師在御判

私見によれば、ここには見るべき点が三つある。一つは、念仏を三種にわけていることであり、一つは、いわゆる「三心」と「四修」とは念仏なる行為に含まれることであり、そして一つは、念仏を行う場合の心構えである。それぞれ検討しよう。

1.三種の念仏

唐土(もろこし)我朝(わがちょう)[1]にもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。
又学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、
うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細(しさい)候(そうら)わず。

ここでは、三種の念仏が挙げられている。まず観想念仏(「観念の念」と記されている)である。観想念仏とは、仏や仏の世界を心の中で念ずるタイプの念仏である。これは雑念を排して為されるものであり、そもそも煩悩を有する者にはできないものである。法然は自らを煩悩を有する者と考えており、時代は末法であり、かつ罪深き大衆との連帯感を抱いていいたので、この観想念仏は自ら身には余るとみなしていた。学識深く徳高き法然すらできないものを、一般大衆ができるというのだろうか。次に学問的念仏である。念仏を学問的対象とし、学問的に理解する類いの念仏である。法然はこれも否定する。最後に残るのは称名念仏であり、何ら仏や仏の世界を念ずることもなく、ただ口で仏に帰依するという意味の「南無阿弥陀仏」と唱えるだけである。これのみが、誰もが汚れている末法の世に唯一可能な救いとなるのである。

注意すべきなのは、ただ漫然と念仏を唱えるのでは不十分なのであり、「うたがいなく往生するぞと思い取りて申す」のが不可欠なのである。「うたがいなく往生するぞと思い」とは深く信じることであり、「申す」とは念仏を唱えることである。つまり、信仰と実践が一体化しているのであり、どちらか一方では不足するのである。念仏を唱えさえすればいい、というのは少しばかり誤解となるようである。

2.念仏に含まれるところの三心と四修

ただし三心(さんじん)四修(ししゅ)と申すことの候(そうろ)うは、皆決定(けつじょう)して
南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。

三心とは、三つの心であり、真実に浄土を願う心・深く浄土を願う心・功徳を回向して浄土に往生せんと願う心、の三つをいう[1]。四修とは、四つの修行であり、仏を恭しく礼拝すること・念仏だけを行うこと・修行を続けること・一生続けること、の四つをいう[2]。この三心と四修は、法然によれば信仰を伴った念仏行為に含まれるのである。つまり、仏を一心に信じて念仏に励めば、その瞬間に三心も四修も獲得されるのである。これによって法然の教えはいっそう単純化しており、庶民にも入りやすいものとなっている。

注:
[1]リンク先のコトバンクには、次のようにある。「『観無量寿経』に説かれる3種の心をいう。至誠心 (真実に浄土を願う心) ,深心 (深く浄土を願う心) ,回向発願心 (所修の功徳を回向して浄土に往生しようと願う心) の三心をそなえているものは必ず浄土に往生できるという。」

[2]リンク先のコトバンクには、次のようにある。「恭敬修(阿彌陀仏や聖衆を恭しく礼拝すること)・無余修(他の行ないをまじえず念仏だけをすること)・無間修(間をおかずに続けて修すること)・長時修(一生の間修すること)の四つ。」

3.念仏を唱える際の心構え

念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学(がく)すとも、一文不知の愚鈍の身になして、
尼入道(あまにゅうどう)の無智のともがらに同じうして、
智者(ちしゃ)のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。

念仏を信じようとするならば、どんなに学識があろうとも、無知無学・愚鈍であると己れをみなさなければならず、あたかも知識然として高ぶったりしては断じてならないのである。(いわゆる啓蒙なるものが無知蒙昧なる者を知識人の高みへと引き上げようとすることならば、法然のこの立場は学識あって賢明なる高きにある者を無知にして愚鈍なる者の低所へと引き下げようとするかの如きである。この意味では、啓蒙と宗教とは相反するものなのかもしれず、このような立場は啓蒙の弁証法の一例であるのかもしれない)

以上が、法然の記す「一枚起請文」の内容である。これを法然がとある人に宛てたとされる手紙「一紙小消息」と比べれば、よりいっそう法然の教えが明らかになると思われる。

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