プラトンの自己実現的正義説

プラトンの自己実現的正義論。
正義についてプラトンは『国家』の中で以下のように言う(岩波文庫の藤沢令夫訳から少し自由な引用をする)。

「我々のひとりひとりの生まれつきは、互いに似ておらず、自然本来の素質の点で異なり、それぞれが別々の仕事につくり向いている」(370D)。
「それぞれの仕事は、一人の人間が自然本来の素質に合った一つのことを、時機を得て、他のさまざまなことから解放されて行う場合にこそ、より多くかつ立派に、そしてより容易に為される」(370C)。
「靴作りが同時に農夫であろうとしたり、織物工であろうとしたり、大工であろうとしたりすることは、許されない」(374B)
「各人が一つのことだけをするのである以上、二面的な者も多面的な者もいない。…。このような国では、靴作りは靴作りであって、靴作りに加えて船長を兼ねるのではなく、農夫は農夫であって、農夫の仕事に加えて裁判官を兼ねるのではなく、戦士は戦士であって、戦争の他に金儲けをするのではない」(397E)
「各人は国におけるさまざま仕事のうちで、その者の生まれつきが本来それに最も適している仕事を、一人が一つずつ行わなければならず、自分のことだけをするのであって、余計なことに手出しをしないことが正義だ」(433A)

つまり、持って生まれた才能に合った天職に励むべきなのであり、他の事に手を出してはならないのだ。私はこれを自己実現の正義と呼ぶ。

正義とは等価交換だ。殴ったら殴り返される。百円払ったら百円相当の珈琲が飲める。これが等価交換であり、これが正義だ。殴っても殴り返されることがなければ、殴られ損であって不正義だ。百円払っても五十円相当の不味い珈琲をもらうのならば、払い損の不正義だ。

さらに、貧しい太郎が篤志家からお金をもらって進学できたとする。太郎が後に努力して裕福になって、御返しとして恵まれない子供たちへと寄付をするとしたら、これはもらったものを返すので等価交換であるが、くれた人へと返すのではない。私はこれを非対称的等価交換と呼ぶ。与えてくれた人へと同価値のものを返すのならば対称的等価交換だが、与えてくれた人とは異なる人へと同価値のものを与えるとしたら、非対称的等価交換となる。

プラトンの自己実現的等価交換は、自然から賦与された素質を、それと同量のものを世間へと返すのだから、これは等価交換であってかつ非対称的となる。

なお、自分の素質にかなったものを伸ばすということは、「各人に各人のものを」という俚諺に相当すると考えられる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?