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(16) 爆発を気に大学中退を決める


ピースボートから降りて、
自分の価値観がひっくり返ったくらいな、
180度人生観が変わるような経験を経たのちに
復学していたわたしは、
びっくりするくらいに大学の授業がつまんなくなっていた。

大学の講義室に溢れる、教授の一方通行な授業、
他学生の居眠りやケータイをいじっているなどの無気力なエネルギーが溢れる空間の中にいることで、わたしの生命がどんどん蝕まれていっているような感覚があった。

休学している間、どんどん足を動かし、
自分の目で、自分の肌で、生きた学びを吸収していっていた。心の底から憧れるような、輝いている大人たちを前に、自分のこころが生き生きと漲っていた感覚が、大学にい続けることで遠くなってしまうのが怖かった。

自分は本当に公教育なのか、 
それがやりたいことなのか、 
悶々と葛藤していた。
葛藤しながらもとりあえずは教職を変わらず取っていたし、教育実習にも行く予定でいた。

教育実習に行ってみて、そこで自分が何を感じるかで決めよう、そこで自分を見定めよう、と思っていた。

「教育実習に行けない」という天のお告げ


そんなある5月の日。

教育実習の配属学校の案内の紙が貼り出されると聞き、見にいったら、なんとわたしの名前がなかった。

びっくりして動揺しながら、すぐに学務に行った。
わたしは休学前に確かに、「1年休学するので来年度の教育実習に行きます」って内容の書類を提出したのだ。

確認してもらったところ、学務の不手際だったことが判明した。わたしの大学はちょくちょく不手際あることはあって、よく学生同士で学務の文句を言っていることはあったのだけど、まさかこんな大きな不手際までしてくれるとは思いもしなかった。

でも元々、自分の行きたい道が本当に公教育という世界なのか、悩んでいたわたしは、これが天のお告げなのだと思った。「あなたはそっちじゃないですよ〜」ということなのだと解釈した。

わたしは、おばあちゃんっこだったのだけど、そのおばあちゃんの一番の願いは、まゆに学校の先生になってもらうことだった。だから当時は本当にたくさんおばあちゃんとぶつかり合った。
わたしのために、わたしに学校の先生になってもらいたいというその大事な願いのために、本当にたくさんよくしてくれたし、助けてくれたのに、当時のわたしは、「わたしの」人生なのに、どうしてそこまで言われなきゃならないの!とどうしてわたしのこころ違和感や、本当の願いを尊重してくれないの!まゆが真に幸せでいることよりも、おばあちゃんの望むまゆでいて欲しいの?ってなってた。

ピースボートで習った、NVCという共感的コミュニケーションをどんなに試みてみても、どうしてもお互いに折れることなく、ぶつかり合う時間が続いていた。
わたしの大好きなおばあちゃんが、わたしが自分のこころに正直な選択をしようとすると、悲しみ、泣き、食べれなくなり、眠れなくなっている、その状況が一番わたしにはしんどかった。

親にとっての幸せと
わたしにとっての幸せ
何度も考えた。

親は自分の子が食べていけなくなったり
不安定な生活をして欲しくないと思う生き物だから
それを回避するために
自分なりの価値観の中で
こうあって欲しいと望みを言ってきたりする。
それは、愛しているが故。大切に思っているからこそ言っている。だけれど幸せの定義や採用している価値観が親と自分とでは違うということが起きる。

そうなった時に
自分の本心や正直な気持ちを殺して
親の言う通りに生きた時
わたしが死ぬその瞬間まで、
自分の人生の納得のいかなさを
親のせいにしないと言い切れる自信がなかった。

そして、自分の人生の納得のいかなさや不幸せを
決して親のせいにはしたくないと思った。
決して大好きな親を、家族を
悪く言うしかない自分にはなりたくないと思った。

だからこそわたしは
自分で選択して、その全責任を自分で負うという選択をしたいと思った。


親の望む通りに生きることだけが親孝行ではないと
自分が真に心の底から幸せだと胸を張って言える選択をすることが、
嘘偽りのないありがとうと愛してるを親に言える唯一の方法だと思った。



【教育】と【国際協力】がやりたくて、
新潟から函館の大学へ行った。
休学してピースボートに乗り、
それまであったような【国際協力】への熱は一気に冷め
残った【教育】も、教育実習にいけなくなり、教職課程を辞めたわたしはもう、この大学にいる理由がなくなっていた。

基本的に仕送りなどはなく、
生活費も大学の授業料も
バイト代と奨学金から払っていたので、
意味の感じれない大学に残ることで
もう一年分の奨学金を借りることも
億劫だと感じた。

だけれど、家族とのぶつかりあいもあるし
なかなかに大学を辞めるということは
わたしにとって大きな勇気のいることだった。


「気に食わない」と言われ爆発した日

そんなある日、また決定的な出来事が起きることになる。

キャリアガイダンスという就職活動のための授業にて
企業に提出する自己PRシートを書いてみよう!みたいな課題が出た時があった。

そこにわたしは「これこそがわたし!」という内容を120%に詰め込んで書いた。
ヒッチハイクのこと、4000枚ポスター貼ったこと、ピースボートに行ったこと、それら経験からわたしに身についたもの、自分の特徴や長所みたいなものをバーっと自分オリジナルに書いた。

見本とは全く違うようなものが出来上がったし、ちょっとだけ、欄に収まりきらなかったりしたけど、でも「これがまゆだ!上出来!」と思って提出した。

そしたら、キャリアガイダンスの先生に呼び出され、わたしの提出した自己PR文の用紙を手に、一言。  

「気にくわない」と言われたのだ。

「わたしはお前に気に入られるために生きてねーよ」って心で思った。
でも、先生の前でそう口にはできず。

なんかこころに衝撃が走ったくらいに
ショックだったのを覚えている。

その時にわたしの中の何かが崩れ、「もう大学を辞めよう」と静かに決意した。

ショックで呆然とした後に
強い悲しみと激しい怒りが出てきた。

これこそがわたしだ!って思う表現を
めいっぱいにしたのに、
それを誰かに評価・否定されることが
その時のわたしにはとても辛かった。

誰かからの「評価」と自分の「存在価値」とが
くっついていたから。

だから内心教育実習が怖かったのも
自分が生徒の前でした授業を評価されるから

公教育への違和感の中で最も大きかったのは、わたしが生徒に評価をつけること、その評価で生徒たちの将来が左右されるということ、それに対する違和感が消えなかった。

わたしは誰にも評価されたくないし、
誰をも評価したくない、と強く思っていた。

評価の世界を抜け出して
誰かにいいと言われるためじゃなく
自分がいいと思えるような表現・学びを
一人一人がのびやかに自分を表現できるような
わたし自信が身を置くなら
そんな教育やそんな環境がいいと思った。

当時のわたしは公教育を辞めた後、
少年院での法務教官や、児童養護施設、サドベリースクール、シュタイナー教育などにアンテナが立っていて、実際に足を運んだり、調べたりしていた。

でもその時のわたしの中に微かな弱さを感じた。
公教育をやめたのならば、それに代わる何かを持っていなきゃいけない、何かをやめると同時に、これからはこれをやっていくと、そう言える何かがないとやめてはいけないと、そう思い込んでいた自分がいた。周りの人への建前のような動機から、取ってつけたように言葉を並べている自分にわたしは気がついていた。

本来、何かをやめる理由は
「それをやりたくないから」
「それが嫌だから」で十分なのだ



でもこの日本はそれを許す空気がない。
わたしもその空気を避けることできず、
わたしが大学を辞めると決めてからというもの
一体何十回聞かれただろうというくらいに
「やめて何するの?」と聞かれた。
もう決まり文句みたいに言われるようになり
だんだんわたしは
「やめたいから辞めるんだよ!やめて何するかは、やめてみなきゃわからんやろ!やめてから決めるわい!」と苛立ったりもしてた。


わたしの好きな本に「日本人はやめる練習が足りない」という本があるのだけど、日本では何かを途中で辞める者は、立派とはされていない。だから、本心や正直な気持ちは辞めたくても、なかなか辞められないし、それ相応の理由を用意しなければならないと、ほとんどの日本人が思っているだろう。
だからこそ、ほとんどの人がやりたくてもできない「辞める」を誰かがした時には、こぞって理由とその後を聞きたくなってしまうのだ。 


だけれど、本当は
やりたいことなんて、
やりたくないことをやめなければ
出てくるはずがないのだ。



そんな思いを胸に、わたしは担当のゼミの先生に退学届にサインをもらい、学務に提出しにいった。
ゼミの先生にはこの大学を辞めることは「先見の明だ」と言われた。思ったよりこの先生は物事の本質がわかっているひとなんだとおもった。

いよいよ学務を前に
大学を提出するとき、
もちろん怖かった。どきどきした。

でも一方で肚を決めた自分は、
なによりも力強くて頼もしかった。

そして退学届を提出したらそのままの足で、例の爆発きっかけのキャリアガイダンスの先生がいる部屋に行った。

そして、
「あなたのあの一言のおかげで、ずっと迷っていた大学を辞めようと決断することができました。ありがとうございました」とお礼を言った。

その先生は、
「そんなことしなくても、もったいない」みたいなことを言ってたけど、「わたしにとってはこれが最善なんです、大きなきっかけをありがとうございました」と言い、お別れした。

そのときわたしは何かから解放されたように
清々しい気持ちになっていた。

自分を生きることは怖い。
でも
自分を生きることは清々しい喜びなのだ。


感性を守り抜くことは世界貢献


今の若者に、「やりたいことがわかりません」という子が多いというけれど、本当はやりたくもないのに、親や世間体のためにやりたくないことをしていたら、そりゃあわかるわけないよなと思う。

やりたいことをやること以上に実は
やりたくないことをやらないということが
大切なのだ。

やりたくないことをやればやるほどに
自分が何が好きなのかを教えてくれる感性が
どんどんと死んでゆく。

自分のやりたいことを自覚したまま
やりたいとは思えないことをやり続けるのは苦痛だからだ。


だから見ない。自分の本心、本当は何を感じているかなんて、知ろうとしない。蓋をする。その繰り返しで、人は自分の本心ややりたいことがわからなくなってゆく。

感性とは守るものなのだ。
人間の「慣れ」という才能によって殺されてゆくことがあるから。

だからまずは殺してしまった感性を取り戻すこと。
嫌なことをやめて、自分の感性を取り戻せたなら必ず、
自分は何が好きなのか
自分は何が幸せなのか
自分は何が喜びなのか
感性が教えてくれる。

すぐに「何かしなければ」という呪いが
私たち日本人の頭には張り付いているので
やりたくないことをやめていった時に
何もしない状態が、本当に怖い。

生きてていいのかと
生きる価値がある人間なのかと不安になる。

そんな時にわたしはいつだってたった一人、
やりたくないことをやらずにいる勇気をほめ
自分の感性を守ろうとする姿に拍手し
あなたにただ、生きていてくれてありがとうと
そう無条件に愛を伝える存在で在りたい。

やりたくないことをやらずに
自分の感性を守り抜くことは
自分への愛だ。
自分を愛している行為だ。

わたしは世界の平和というのは
愛し合う人間が増えることだと思っていいる。
やりたくないことをやるが故に
近くの人を愛せない
目の前の人と愛し合えない自分でいることは
世界の平和の反対の行為だ。
自分を愛せて初めて誰かを愛せるのならば
自分を愛することは世界平和への行為だとわたしは思う。

だからこそ、自分の感性を守ることは世界貢献なのだ。


何かを我慢したり
やりたくないことをやる人は
自分の好きにやっている人や
幸せでいる人を、認められない。潰したくなってしまう。

我慢というのは、一個人のなかで終わらせることが非常に難しい代物なのだ。我慢というのは二次被害を生んだり、連鎖したりする。自分がした我慢は他の誰かにも押し付けたくなってしまう。だからこそ、わたしは自分にも誰かにも、「どうかお願いだから我慢だけはしないでくれ」と本気で思っている。いいことない。

我慢してまで何かやりたくないことをやらなければならない状況があるのであれば、それはその先に自分の望むものがはっきりとあるときだけだ。



【当時のFB投稿】

「教育実習いけず教職を辞める」
https://www.facebook.com/100008071894970/posts/1922848181327560/?d=n

「爆発」
https://www.facebook.com/100008071894970/posts/2008635572748820/?d=n



「大学を辞め、函館を去る」
https://www.facebook.com/100008071894970/posts/2021072951505082/?d=n

とってもよろこびます♡