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4月に補聴器をはじめた話 その2

補聴器をつけてよかったのは、何と言っても「会話がリアルタイムでわかる!」っていうことです。「快感だ」って思いました。

なんて言ったらいいか言葉が見つかりにくいのですが、「話を聴き取って、理解して、動く・話すことができる、どんどん前へ進んでいける」そういうからだの感じが心地よいということかな~と思います。

補聴器をつけるまでは、「声は聴こえてるんだけど、何を言っているのかがわからない」ことに悩まされていました。今、何が話されているかわからないと、話に反応できなくて、そこで私自身の時間が止まっている感じなんですね。

「声や音は聴こえても言葉として理解できないのは、あなたの場合、高音域の音が聴き取れていないからです。高音域帯に属する子音が聴き取れなくなることで、音声を言葉として脳が認識できなくなるんです。」と、お医者さんの説明がありました。知らない外国の言葉で話しかけられているのと同じことらしいです。

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人の話を聞こうとしていても、この聴こえにくさがあると、聴き取れて理解できる部分とできない部分がマダラにやってくる気がします。
すると、わからなかった部分を「推測しよう」と反応してしまうんですね。
でも、話はどんどん進んでいくから、聴き取れていない部分が増えていくだけで、結局何の話かわからないままに終わってしまいます。これは本当に疲れます。

でもでも、「聴き取れないし無駄」とわかっていても、何とか推測して聴き取ろうと反応しちゃうんです。相手の話を理解したい気持ちはいっぱいあるからね。

また、聴き取れていないのに、ふんふんと『相槌を打ってしまうクセ』を身につけてしまい、困ったこともあります。
これも、相手の話を理解したい気持ちはいっぱいあるってことなんです。適当に聞き流そうなんては思ってないよ。
ただ、私が「もう一度言って」と言って、その場の雰囲気を壊してしまうのが怖いから、聴こえているフリが身についてしまっていた、ということやと思います。(もう一度言ってもらっても、なかなか聴き取れないときもあって、私がわかるまで言ってもらうのは、私も相手もとてもエネルギーがいることなんです。)
でも、結局話の内容がわかっていないから、「適当に聞いてる」「わかろうとしてない」って誤解を受けたことも多々ありました。

「聴こう!」と意識するあまり、ついつい頭や顔や首や肩などをカチカチに固めて、『力んで』しまったときもありました。首や肩が凝るほど力んでも聴き取りがよくなることはありません。

反対に、「聴こえなかったらどうしよう」という『不安」が先だって、相手の話をまったく聴いていない自分に気づいたこともありました。

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補聴器のおかげで、スッと聴き取れることが多くなって、これらの聴き取りにまつわる過度の不安や緊張はかなりなくなり、今はとても楽になりました。

何よりも、冗談やしょーもない話をして、みんなと一緒に笑えるのがいいな~って思います。
聴き取れると、すぐに反応できるもんね。
言葉ででも、表情でも、しぐさでも!

そうすると話している相手との間に、感情の行き来があって安心感というか信頼感ができるし、話の内容以上のものが、その場には生まれると思います。

聴き取れないと、こういう日常の小さな安心感というか、ここに帰属しているという感じの積み重ねが、少しずつ失われていって何か寂しい孤独な感覚に陥ってしまいます。

確かに、話の内容や話し相手によっては、安心感が生まれないような場合もあるだろうけれど、そういう時でも聴き取れないと、「どうして安心できないのか」ということを明確に自分自身で判断しにくくて、自分の立ち位置はどこなのか、どうふるまえばいいのか、わからずに不安になることもあります。

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補聴器をつけはじめた頃に、「補聴器つけてるのに、なんで聴こえないの?」って家族に聞かれたことがあります。
実は、補聴器を付けたからといって、まったく問題なく聴こえるわけではないんです。

私の補聴器は、軽度難聴くらいに調整してあるそうで、健聴者並みには聴こえないんです。
あまりよく聴こえるのも今の私の耳にとっては負担になる、ということでしょうか。眼鏡の度を調整するときと同じですね。
だから、「聴き取れないときにどうするか」ということは、これからも私について回る課題のようです。


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