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【ただしさに殺されないために】生徒と考えたい1冊。感化されやすい私の本との向き合い方。

4月15日(月)

4月も後半スタート!🌸気持ちのいいお天気が続いていて、空を見上げては表情がゆるゆるになる日々です😌
ついつい空を見上げすぎて、仕事が手につきません🤤

そんな今日はある本を読んで。

相変わらず、オーディオブックで本を聴いている私ですが、最近は社会学系の本が多めです。その中で、先週ふと目に入ってきてあっという間に2周目になる一冊があります。
こちら。
「ただしさに殺されないために 声なき者への社会論」著者:御田寺圭

本当によーく、考えさせられている1冊で、まだまだ、自分の中で咀嚼中です。どうやらこちら、大学入試などにも使われているみたいです。

ちなみに最近再読、少し前に読んだこれらの本の内容とも、リンクする部分があるなと感じました。

加害者の被害者性という、とても難しく複雑な問題、でも、現実に起こっていることです。

“ただしさに殺されないために”
読み終えて改めてこの本のタイトルを見て、胃がぎゅっとなる感覚を覚えます。

正解なんてないよ、としながらも、世の中にはなんとなく漂う大勢が頷く「正しさ」があって
それは普段は特に強く主張はせず、まるで全員を優しく包み込むような格好をしているかもしれないけれど、
全員を優しく包み込むと見せかけ、「正しさ」というベールを纏ってひっそりと、見たくないものに蓋をして排除してしまう。

そして気付かないうちに私たちは、「正しい」とか「善」のベールを纏った方をなんとなく選択し、見たくないものの存在すら知らずに、自分たちは正しいことをしているような気になって、排除に加担してしまう。

日本が陥ってる状況だけでなく、この本の序盤では、世界的に見ても、「正しい」とされている方向に進んでいるはずの国が、あれ?むしろ、なんか悪い結果を生んではいないか?多様性は脆弱性ではないか?民主主義国家と光と影は?という点に触れられています。

私は良くも悪くも感化されやすい人間なので
読むやいなや、「そ、それは大変だ!」となってしまうところがあります。なので意識的に、自分のペースで時間をかけて立ち止まり考えることを大事にしています。

オーディオブックで1回聴いたら、2周目は、書きながら聴きます。そうでもしないと、印象的な箇所に引っ張られ「だって、この本にそう書かれていたから!」という思考停止状態になってしまうので。。

とは言え、とらえ切れない、考え抜き切れない部分ももちろんあるので、レビューや書評を読んで他者目線を追加すると、これまた感化されやすいので、3秒前まで「これはやばい、大変だ!」と心がざわつきまっくたと思えば、「確かに、そうとも言える」とすんなり落ち着きを取り戻したり忙しく生きています。
こちらの本「ただしさに殺されないために」もまた、たくさん読まれている本なので、書評を書かれている方も多く、「弱者男性を自認する読者の被害者意識をいっそう強めることだけを目的としている」、「「不快な思考実験」的ケーススタディ本」等、色々な他者目線があり、それも含めて勉強になる本でした。

実際読んでみた私ですが、「ただしさってなんだ?」「君の言うただしさって、ほんとにそうなの?こんな現実あるが、それでもそれがただしいと、胸を張って言えるのかな?」と問われて問われて、問われたまま、「もやぁ…」と、その後の生活に問いが残り続けるような1冊でした。
すなわち、生徒たちと話したくなる1冊です。

例えば、第2章「差別と生きる私たち」では、「排除アート」について触れられています。排除アートと調べれば、

排除アートとは、路上や駅、公園などのパブリックスペースにおいて、その場所があらかじめ想定された用途以外に使われることを防ぐアーバンデザインを指す。目的としては街の美化や治安の維持などがあげられる。

と、ここまではまだ、「アート」という言葉によってその意味がカモフラージュされてる風ですが、

これらは、表向きは街を行く人の目を楽しませるアートに見えるが、実はホームレス状態にある人々や、そのほか街や一般市民にとって好ましくないと判断される人々がその場所に滞在することを防ぐ機能を持っているため、「排除アート」と呼ばれる。

アートの名のもとに、誰かを排除するという意図がカモフラージュされていますが、そのアートにはつまり、ホームレスのおじちゃんたちへの無言の排除のメッセージが込められています。

行政が、
「ホームレスが寝泊まりできないように、彼らが身を落ち着けそうなところには障害物を置いて彼らを追い出すように努めます」
なんて言ってアートを置いたなら、
「そんなのはかわいそうだ!」
という市民からの声、またそれでは差別に加担したことになるから表向きには賛成できない…なんて人も居るかもしれません。

でも、
「町の美観を向上さるために、芸術的なオブジェを設置しています」
となれば話は別、市民はなんの後ろめたさもなく、
「そういうことなら!」
と、アートの設置を歓迎する。街を美しくしたい、という善意だけが残る
私たちはいつのまにか、誰かの排除に加担しているかもしれないということにすら気付かずに自分たちは決して差別などしない、悪人ではないというポジションを守りながら一面的な”ただしい”世界を作り上げているのかもしれないということを深く考えさせられました。

はあ、世界は、醜いな、と思います。

「置き去り死」について触れられている章もあります。

母親が幼い子どもを死なせる、とあるニュースが流れた時、インターネットではにわかに母親への擁護論が起こったそうです。
「最終的に死なせてしまったのは母親だが、だからと言って、母親だけが加害者として逮捕され罪に問われるのははなはだ不条理極まりない。父親にも責任があるのだから、彼女だけが罪に問われるのはおかしい。この人も辛かっただろうに。シングルマザーが子どもを育てやすい社会にしなければ」

等の、同情的な意見が数多くコメントされました。
こういった、母親の孤立状態に関する状況、そしてそれに対する世間の反応を踏まえ、本には以下のように続きます。

このような凄惨極まる事件が起きるのは、社会が道徳的に大敗してるからではなく、経済的に衰退しているからでもない。ましてや現代社会が全体として機能不全を起こしているわけでもない。無残としか言いようがない帰結がもたらされたのは、社会的機能不全ではない。逆である。大勢の期待する通りに、社会が正常運転していたからこそこの結末が導かれた。

私たちが望んだ社会が実現されたから、こういった事件が起きた
と指摘されています。

世界、つまり人間、つまり私たちは、醜いし、ずるいし、汚い。

美しいだけなんて、綺麗なだけの物語は、その瞬間は良いかもしれないけど、それはいずれ、自分の醜い部分すら否定するものになるかもしない。

だから、醜さも弱さも含めた自分を、世界を、見ていけるように、みんなと話したくなる、そんな1冊です。

この本をテーマとして、授業で扱いたい、生徒たちと一緒に現実をとらえ、どう感じるか、その上でどうするべきか、そんな話がしたくなる1冊でした。

そうするために、私ももう少ししっかり、読み込もうと思います。

ということで、今日もへとへとです。

おやすみなさい。



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