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行けなくて、行ける場所

年が明けたら京都に遊びに行くという友達に、おすすめの場所をまとめて教えるね、と年末に約束したことを思い出し、あわててリストをつくる。

10代の終わりから20代の半ばにかけて、年に2,3回は足を運ぶほど、京都に恋していた時期があった。その後、すっかりご無沙汰してしまった私のなかの京都地図は、今もあの頃のままだ。果たして、まだ存在するのかどうか、しっかり確かめもせずに、思いつくままに店の名前と感想を打ちこんでゆく。
頭の中で、思い出の道をゆっくり歩き出すと、短い滞在時間では、お目当の場所全てを巡ることは不可能で、一度訪れて気に入った場所は、行くたびに立ち寄りたいし、いつでも“行きたかったけど、行けなかった場所”ばかりが増えていく。
そのため、行けば必ず駆け足で巡ることになり、ついに同行者から「目的地に行くだけだ旅じゃないんだよ。」と強くたしなめられた苦い想い出がある。確か、六曜社の前の通りだった気がする。
それがきっかけとなったかどうかは、定かではないが、いつしか足が途絶えてしまった。今までのペースで通っていればまだしも、京都に移住した知人の紹介や、京都帰りの友からの最新情報により、必然的に、“行ったことはないけど、ぜひ行ってみたい場所”ばかりが増え、完成したリストは、なんとも無責任なものになってしまった。心苦しく思う。老舗は老舗として残り、新しいものも拒まず受け入れていく京都を知り尽くすには、住むしかない。そんな勇気などとうていなく、逃げ出したんだ、私は。

そんな中でも、とりわけ行ってみたい場所として推したのは、出町柳の柳月堂だ。
ベーカリーと名曲喫茶が併設されており、リスニングルームで購入したパンを食すことができるという。
京都を訪れるたびに、行きたい場所リストにのぼるものの、あの頃の私は、名曲喫茶という存在に怯えていたように思う。近くまで行っても、何かと理由をつけては、一度も足を向けたことはない。
今となっては、渋谷の名曲喫茶ライオンや、阿佐ヶ谷のヴィオロンなどで勝手を教わり、最も心落ち着く場所となった。クラシックに明るくはないが、音の中にたゆたい、思索する時間がたまらなく好きだ。どこよりもひとりになれる気がした。
あぁ、私も久しぶりに京都に行ってみようかな、今度こそは必ず、真っ先き足を運ぼう…と胸高鳴る寸前で、気がつく。

今の私には、行けない。
息子がいる。
これまでに一緒に出かけたところを思い返してみると、かなり強引な部類に入ると自負する。早朝の空いている時間をいいことに、ボヘミアン・ラプソティを観に行ったのはこの私だ。運良く寝てくれたものの、あーとか、ふぎゃとか、わずかに声をあげて、ひやりとする場面が何度もあった。名曲喫茶だけは、絶対に無理だ。

そう気づいても、取り立てて悲観的にはならなかった。当たり前のことだ。
ただ、これまでの強引な自分に、決定的に行けない場所が提示されたことが、新鮮だった(哀しいかな、もうひとつ推した場所も、漬物屋の角打ちだった)。

リストが完成し、友人に渡したところ、無責任さにはやさしく目をつぶり、おもいのほか喜んでくれた。行ってみてよかったところは、律儀にフィードバックしてくれるというから、こうしてまた、“ぜひ行ってみたい場所”が増殖してくにちがいない。

行けない場所ができても、やっぱり悲しくなはい。
むしろほっとした。息子のおかげで、あのとき叱責された旅の仕方を卒業できる気がした。

行けない場所ができたら、行けなかった場所に戻ることができた。

麻佑子
#エッセイ #日記

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