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何かを目指して頑張っていることに幸せを感じてはいけないのか

休学して、ブラジルに滞在中、親しい人と喧嘩になった。原因は幸せについての議論。
私は、何か目指しているものがあって、それに向かって頑張っているときが、幸せだと思っていた。その過程で時に辛いことがあったとしても、夢を持てて、それに向かって努力できるのは幸せなことだと。

でも、その人は、それではダメだというのだ。
何か物やことに幸せを感じるのは良くない。その特定の物やことがなくなった時には、幸せではなくなってしまうから、と。
恋人と一緒にいるときの幸せも、
良いレストランでご飯を食べているときの幸せも、
旅行をしているときの幸せも、
そして、夢を目指して頑張っているときの幸せも、
全て、その時だけのもの。つまり、それらの、物やことに幸せを感じていたら、その時間が終わった時に不幸せになってしまうではないか。
だから、物やことではなく、自分の存在自体に幸せを感じるべきだ。自分がここに存在することを感じて、そのこと自体を幸せだと思うべきだ。
そう彼は言うのだ。


私は、その頃、あるウェブサイト作りに夢中になっていた。自分で考えて、色々工夫していくのが、とても、とても楽しかった。全体のバランス、押してもらいやすいボタン、利用者のニーズや年齢層、他のSNSとの差…
そんなことを考えていると、時間を忘れた。何かむしゃくしゃしたことがあっても、そのことを考えていれば忘れられた。時には、うまく進まないこともあって、そんなときは落ち込み気味になったけれど、それはそれでいいと思っていた。
やりたいことがあって、それに向かって夢中になっている、そのことがすごく幸せだと思った。

でも彼には、それを否定された。そこに幸せを感じていたら、その目指していることを達成してしまったとき、あるいはうまくいかずにストップしてしまったとき、不幸せになってしまうじゃないか、と。
そして、瞑想を勧められた。瞑想を通じて自分の存在を感じろと。

人が幸せを感じているのに、何を言うんだと思って、正直むかついた。でも一理あるとは思う。事実、そのウェブサイトを作るのは、途中でやめてしまって、私は、なんとなくハリのない日々に戻ったし、恋人といる時が幸せだと感じていると、一緒にいない時は、ただただ会いたいと苦しい思いをするだけになってしまう。せっかく生きているのにそれはもったいない。


だから今はこう思う。
自分の人生なのだから、自分の生きたいように生きればいいし、
楽しくて、幸せを感じているとき、わざわざそれを否定して、自分の存在自体に幸せを感じようとはしなくていい。

でも、何かうまくいっていない時や、自分の心がぐらついてしまうような時、動けなくなってしまった時は、

目を閉じて、ゆっくり呼吸を繰り返して、
自分は今ここに、
自分の真ん中に存在すること、
そして、そこにはエネルギーが満ちていること、

それを意識して感じてみる。
そうしたら、思っていたよりも自分は強いということ、自分は幸せだということに、きっと、気づける。
そして、それは大切なことなのだと思う。


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