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【44/1096】気づく、まっすぐ観る、ゆるす

44日目。またゾロ目だ。ゾロ目の日というのはわりとくるのだな。別に賭け事をやるわけではないので、ゾロ目が特に気になるとかではなかったのだが、同じ数字が並んでると、自動的に「ゾロ目だ!」と思う不思議。

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元陸上競技オリンピック選手の為末大さんのnoteを読んだ。
為末さんのブログは前から時々読んでいて、ものすごく細かいところまで良く観て考えてる人だなあと思っている。この「気づき」についても考えていたことが言語化されていて、深く頷いた。

特にこの部分は、まったくそのとおりだなと思う。

深い気づきには大きな衝撃が伴います。必死で問題を解決しようとし、苦労し、時にはそれを憎みすらしたのに、実は問題は私であったと知ることだからです。気づきはただの発見ではなく覚悟でもあります。気づきはそういう意味でもとにかく「自分に気づく」ことです。自分にとって自分以外に世界を認識している存在はいないからです。この衝撃はとても強いので、それなりに自分に余裕がないと成立しないということはありえます。

私が「まっすぐ観る」と言っているのは、まさしくこのことで、さらに、まっすぐ観て、気づき続けるということである。
そして、この自分に余裕をつくる=スペースをとるということを、私たちは学んできていないように思う。
そして、そのうえで、余裕(もしくは余白と言ってもいいが)は、つくるものであり、この衝撃は受け流せるものである。
衝撃はまともに食らったら痛いし、押しとどめたら固まってそのうち麻痺してこじらせるし、敷いては衝撃を受けないように回避行動(防衛反応ともいう)を取り続けるようになる。
すると、気づけない。気づけないまま、ただ苦しくなっていく。
ただ向き合い、それを真正面から受け取り流すしかない。
受け流せば循環する。
それを、身体を通じてやっているのが呼吸整体という生きる技なのであるが、この中で「許可の呼吸」というのがある。
スペースをあける、余裕余白をつくるのに、すごくよいのでしょっちゅうやっている。

呼吸整体の森田先生が伝えるときに、「息が勝手に出ていくのをちょっとずつ許可するんですよ」とおっしゃって、そこから許可の呼吸と呼んでるらしいのだが、これがすごい。
息は、吸い込めば勝手にでていくのだ。でも、なぜ息を止めてられるか?というと息が出ていくのを許可していないからである。許可すると、息は勝手に出ていく。
説明すると単純な非常にシンプルな当たり前のことなのだが、当たり前のことを「実践していない」のが人間である。

この許可の呼吸を、3時間くらい続けたことがあるのだが、次元を超えたところに行った。
ああ、このまま日常を過ごせばいいのか、と思った。

あの瞬間、「私は息をしているだけで尊い。すでにすべて赦された存在なのだ」という次元にいた。

すべての気づきは自分である。

そして、許していないのは、自分なのだ。

私がもっとも自分を許すことが難しいことに、性暴力を受けた自分というのがある。

私が初めて性暴力に遭ったのは6歳のころで、その子どもになんの責もないということは十分理解しているし、セラピストやカウンセラーにも「あなたは何一つ悪くない」と言ってもらって、何度も泣いてきた。
しかし、その後も継続して、たびたび性暴力を受けてしまったのは子どものころにあれを受けたのが発端だっただろうと思う。
そのように自分を扱ってよい、と自分で自分を貶めていたのは私なのだ。
この気づきの衝撃は、ちょっと生半可には受けきれなかった。
何度も回避して、回避して回避して、まったく正面から向き合えなかった。

(誤解のないように補足するが、暴力を振るわれたのは、自分のせいだということではない。加害者が被害者のせいにして、責任を回避することはよく行われるがそれを容認しているわけではなく、暴力はした側に100%の責任がある、ということは断固として主張する。)

長年そのことについてセラピーを受け、トラウマの扱いを学んで、克服してきた。少しずつよくなってきたし、今は日常生活に困難を感じることはなくなり、健やかさを取り戻している。

それでも、時折、強烈に襲ってくるものに、あの時あの暴力を許容した自分をどうしても許せないというものがあった。

どんなに私は悪くない、と言い聞かせても、そこから逃げることはできない。
「どうしたらいいのか、わからない。」
いつもそこに入って迷走した。

男性の姿かたちをしている人に対して、必ず恐怖を抱いており、どこかを緊張させていた。
男性であっても、すべての人が暴力をふるうわけではない、ひとりひとり違う、ということを理解しても、その緊張を外すことができなかった。
「どうしたらいいのか、わからない。」
回避する方法は、ものすごく近づいて甘えるか、ものすごく遠ざけて関わらないかのどちらかである。
「男性」という枠を当てはめて、相手をまったく観ずに、自分を閉じていた。誰かと一緒にいてもいつも孤独だったのはそのせいなのに、さみしくて悲しかった。
そこでずっとぐるぐるしながら、自分を許せず、相手を許せず、世界を許せず、いつも何かと闘って、疲れていた。

この身体はその暴力を受けた最も象徴足るもので、その感覚が残り続けているから、この身体から離脱したかった。
それが解離である。
わたしは解離して生き延びた。
身体から意識を外すのである。
そうしないと、生きることができなかったからそうしていたが、そのうち、その解離が現実を生きることを困難にするということが起きた。
心と身体は一致しているものなのに、解離すると分離するから、常に不一致になる。自分で自分を信じられなくなる。
でも、自分の意志でそうしているのではなく、なにかのきっかけで、勝手に解離するので、「どうしたらいいかわからない」まま生きていた。

そしてとうとうだましだましきていた身体が悲鳴をあげて、まったく動けなくなった。
動けないまま死ねるならよかったけど、死ぬのはそう簡単ではなかったし、このまま死ぬのはイヤだとも思っていた。

そして、身体の声を聴くことにしたのである。
自分がどうしたいのか?がまったくわからなくなった私が、どうしたらいいか身体に聴けるようになろうと思った。
思ってすぐに聴けるようになるはずもなく、試行錯誤しながら、今もまだ探求し続けているが、この道は間違っていないと思う。
なぜなら、健やかさを取り戻したから。
生きるのがずっと楽になったから。

今、私がマスターと師と呼ぶ人は、男性である。
絶対の信頼を置いている。
自分が信じられなくなったら、彼らを信じていることを思い出して、彼らが信じてくれている自分を思い出して、乗り越えるようにした。
けっして甘えさせてはくれないが、突き放したりもしない。
そのくらい信頼を置いているのだけど、その両方から与えられたものは、
「自分をただゆるせ」ということだった。

そして、そのゆるした先の世界を観た。
「私は息をしているだけで尊い。すでにすべて赦された存在なのだ」という世界で、まるごと生きるために、今日もただ気づき続ける。

ではまたね。



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