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【873/1096】コミュニケーションは生きもの

本日は、呼吸DOJO応用クラス。
コミュニケーション。
身体で感じているものをいかに遮断しないかという練習。
いかに遮断して日常過ごしているのか?も明らかになるけど、まずはそれに気づくところから。

何かを始めるときに構えが入る。
構えているということは、緊張している。
緊張は、不安か恐怖のあらわれ。
不安か恐怖は、頭の中にしかない。
ということを思い出す。
頭の中の不安と恐怖に向き合うのではなくて、今、目の前の人に向き合うんだった!

コミュニケーションは生きものだなーと思う。
今この場で、動いている。
海の中の魚が止まっていないように。
見たときは止まっていても、すぐ動き出すように。
今、この瞬間どうなっているか。
それを感じて、みてきいて、さわって、あじわってみる。

「感じる」には、大雑把に言うと2種類あって、
「認知から感じる」ことと、「情動から感じる」がある。
認知は脳から、情動は身体から。
情動には生理的な反応も含まれる。
この情動は、生じないようにする、ということができない。
人間は、これを感じないように脳でコントロールできるのが曲者。
トイレに行きたいのを我慢して膀胱炎になる、というように。

生じているものは、そのまま感じればいいだけで、なんとかしようとしないというのが一番の対応である。
が、これがなかなかどうして、今までやってない(抑圧したり、無視したり、瞬殺したりしているので)と、すごく不快な感じに思えたりして、今までどおり、感じないようにしたくなる。息を犠牲にして。
生じているものをただ感じるを阻害すると、息が犠牲になる。
なぜなら、身体のどこかを力ませて阻害するから。
不快な感じに思えても、生じているものをただ感じるとき、息は楽なのである。

息が楽なまま、コミュニケーションをとることの豊かさよ。
自分も相手も広がって、私たちは大丈夫を共有しながら、この世界を渡っていける。文字に書くと大げさだけど、まあ、そんな感じ。

ちなみに、認知から感じるは、認知を変えると感じ方も変わる。そこは頭で考えて切り替えられるところではあるが、これもなかなかどうして手ごわい。
ほんとうに自動運転なので、「それが当たり前」というのが強くて自分だけで気づくのは、ある程度、練習がいるなーと思う。いろいろツールはあるのでやってみるといい。
ジャーナリングとかおススメ。
でも、まあやはり、これこそ、人と話すのがよくて、聴いてもらって、ああそうか!と気づけると変わるってことが多い。

応用クラスはいろんな人と交流してるので、その両方がいっぺんにやれて非常にいいなと思っている。
今日は、周りに絵が飾ってあって、その絵に対して閉じようとする自分がものすごく強く、自分としては意外に思ったが、空間が変わった時に慣れないのには子どもの頃、かなり敏感だったよ!と帰り道つらつらと思いだした。
自分をよく知るのにもよい。

では、また。


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