アートとパートナー,コミュニケーション2018/04/21

荒削り。数年間アカデミックな勉強の仕方を忘れていて、吸収したいぞ!って欲望はずっと感じながらもうまくストックできてなかった。
数少ない同性同学年で同じく岐阜出身の友達のおかげで今日は、なんで私は大学にこれから行くのか、現代アートを追っかけて来たのか思い出せた。
ノートの取り方まとめ方を忘れちゃってることに気づいたから、とりあえず勢いでここにメモ。

なんでアートが好きか。
コミュニケーションが好きなだけ取れるから。
人を前にすると、彼の時間やエネルギーを削ぐことを懸念して思いっきり彼への興味や疑問や不愉快さまでもぶつけれない。

作品は、いい意味で何も言えないし、何かを言い続けてくれる。
目の前で生きてはいない何かが、確実に何かを言っている。
そのメッセージを辿るのが好き。
予測したり推測したりして、話を聞いてあげたいと思う。
好きなだけ私は目の前の作品におせっかいをかけれるし、それに傷つけられても尊重できるし、会話をし続けられる。

作品は、言葉一つにもなり得るし、映画一本にもなり得るし、話し相手の代わりにもなる。

私は伝えることに不器用だし、遅いし、気分屋だし、よくわからんこだわりがある。しかもたまに器用だしせっかちだし、頑固で単純なので、固定に人と会えない。
コミュニケーション大好きがゆえに、それに応えてくれる時間とかエネルギーを持った人は少ないから、あんまり人と関われない。

その寂しさを解消してくれるコミュニケーションがアートに触れることで、きっと私のコミュニケーション手段に近いから、私は言語学ではなくて、アートを学んで自分もその手段で表現しようとしたんだと思う。

デザインからファインアートに転科して、日本からオランダに出ようとしてる。
根底にあるのは、コミュニティに属したいって気持ちとかコミュニケーションを取りたいって気持ち。
人がいないと、当たる壁がないと私がやってることは意味がなくて、だだっ広い田舎でも、都会の中の人のいない真っ白なスタジオでもダメらしい。

オランダ人の優しさとか余裕が好き。トラムの中でスマホを見てる人がほとんどいなくてみんなが景色を見るところに精神年齢の高さを感じるし、それは少なからずフルヌードの男性が広告になって街中に貼ってあるところや売春が合法なところ、性をオープンに認可するところと繋がってるんじゃないかと思う。(ファッキンセクハラ大国の日本に性教育を正しに帰ってくるつもりだ。♯METOO)

自分は長期的生産性タイプの人間で、現代アートをじっとりやっていこうかと思ったけど、ちゃうやん、そう言えば結果すぐ見えんと嫌やわ、と思っていまの向かせられた道は確かに私のオーガニック要素と繋がってる。
何年かかけて何回か大学に落ちて、あーもうアートあかんな。と思ったけど、いや、全然できるわ。

自分はこうだって決め事しないことにするし、目標やゴールを定めるのやめた。結局途中で見え方変わるし、その視野の広さや軽さはある意味で私の武器ということにする。

のんびりハッピーに、アホっぽい聞こえだけど、あったかい太陽をまとったまんま生き続けてる方がきっと私が活かせるニオイがするし、そうして目の前の人、一人一人笑わせていたい。

ぼんやり自分にできそうなことは、インテリアのブランドを持つこと。かたちの気持ち良さって他人と共感できるはずだから、そこに私の好きな色とか配色をファブリックにして押し付けちゃう。
ツルツルの石とか陶器の食器とか。
試作とかためて、コンセプトと一致させたら作品にできるし、それらを一気に並べれたらきっと、私が何やってるか人に見せれる。

現代アート作品と言って、そのビデオ作品の中で自分の不満とか思想を話しているのを混ぜるのはずるいと思った。これは今日見た作品の愚痴。
会話ができるような作品を作れるかは、正直わからないけど、できなさそうなことが見えたことで、これなら見せれるかもって内容の少ない私の中から可能性を見出せた。
それが小さいわくわくに見えて、数ヶ月以来に自分の中に気持ちいい光を見れたこと、そのきっかけがアートを目の前にした人との関わりの中で生まれて嬉しい。
ただいま!!!!!!!!!!!!!!!!!!!