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無関心は反社

 好きの反対は無関心という言葉があるが概ねその通りだと思う。転じて、善の反対は無頓着だとも僕は思う。あらゆる物事について無頓着、つまり何も考えていないということは、他人を大切にする理由も術も発想できないということだ。僕の母親を見ていると強くそう思う。


 母はこの世の殆どの物事に興味がない。趣味は一切なく働かず寝そべっている生活をひたすら繰り返しているが、それでいて退屈だとか充実感がないだとか、そういった苦痛を感じない。何か趣味を始めようとしたことすら見たことがないし、何となく点けているテレビやラジオも関心を持って見ているようには全く見えない。何にも興味がないし考えていない。しかし、他人に文句を言ったり相手の事情を一切考慮せず自分の都合を押し付ける行為は繰り返す。具体的には、父親が忙しそうにしている時に全く急ぐ必要のない要求を押し付けたり、相手が善意でしてくれたことへケチをつけたり。普通であれば考え難いことだが、それをやっている母親からは悪意が全く読み取れない。「今忙しいんですけど」と怒られても母親は「何で怒ってるんだ?」といった反応をする。
母親の無礼者っぷりと無頓着が無関係だとは僕はどうしても考えられない。母は何にも興味がないが故に当然、他人の心にも関心がないし、それを想像する術も動機も持ち合わせていないのではないか。


 僕は基本的に「大抵の人間は根気よく接すれば嫌でも相手の良いところがそれなりに見えてくるし、嫌いだった相手を好きとまでは行かずとも嫌いは脱せるだろう」と考えていた。が、母親のような人間がこの世に存在することを考えるとそれはあまりにも楽観的で荒唐無稽だと思わされる。何も考えていない人間相手に、道徳・正義・法律などのあらゆる社会的な概念は効かないから。


 人間が皆、母のようになったら言うまでもなくこの世は終わるが、母のようなタイプに限っては1%の人間が母のようになっても世界は破滅を迎えるだろう。こんな人間が1%もいたら人々が対話不能な他者というものを認識する機会を得すぎて社会全体が不信感に覆われる。

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