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ものがたり) 夢路にて#3

 昼間は花曇りの一日だったが、空は今も薄い雲に覆われて、朧ろな月の光が夜の街を照らしている。窓硝子に映る冬月とうげつは軽く目を伏せて、時折り、羽織の袖の中で数珠をつまぐっていた。師の霽月せいげつが亡くなってからというもの、冬月は数珠を手放したことがないと聞く。
 車に乗り込んでから黙りこくったままの冬月に、帰りはひとりでゆっくりさせてやるべきだったろうか、と汐見は考えた。舞台を終えた冬月の控え室には、次々と夜会の客たちが押し寄せた。冬月はそのひとりひとりに実に丁寧に応対してくれたのだったが、そのせいでまともに休む時間もなかったばかりか、仲間の役者や楽師たちから置いてきぼりをくらうはめになった。この車が篠乃井ささのい座に着く頃には零時を過ぎる。明日の舞台に影響しないとよいが。
 汐見は隣を振り返った。
 「太夫」
 「子爵」
 汐見の声に、冬月の声が重なる。
 二人はしばしの間、お互いを見交わした。
 冬月の左の目尻にはほくろがあった。雑誌などで見るよりも、間近で見るとずいぶんと艶なものだ。汐見は表情を和らげたが、いっぽうの冬月は固い声で、ご無礼をいたしました、と小さく呟いたきり口を閉じてしまった。
 「太夫、なにか言いかけていたのではありませんか」
 元のように前を向いてかしこまっていた冬月は、汐見の問いかけに身じろいだ。本来、直接口を利いてよい相手ではないのだ。しかし、汐見の口調にどこか気軽な雰囲気を感じたのに力を得て、さきほど言おうとしていた今日の礼を述べはじめた。貴族の夜会で舞台を務めさせてもらえるなど、一生に一度あるかないかの大変な栄誉だ。無礼を承知で、自分自身の言葉で礼を言いたかった。
 だが冬月の口からは、舞台での張りのある唄声とは打って変わった、か細い声しか出てこなかった。体は心もち汐見の方へ向けているが、身分ある相手の顔をじかに見ることのないよう、用心深く面は伏せたままである。時々言葉に詰まるのは、礼を欠いた物言いをしていないかと迷うからだろう。客館を出る時も、役者ごときが貴族の車に乗せていただくなどとんでもないと言って、この夜更けに篠乃井座まで歩いて帰ろうとしていたくらいなのだ。
 「太夫。礼には及ばないですよ」
 汐見は冬月をやわらかく遮った。
 「ですが」
 冬月は思わず顔を上げかけて汐見と目が合い、はっと下を向いた。
 「ですが、私めのような者にこんな遅くまで子爵のお時間を…」
 汐見はかすかに眉をひそめた。
 舞台の上ではあれほど美しく舞い、人の目を奪う冬月が、舞台を降りた今はこんなにも小さくなって汐見の顔色を伺っている。役者という仕事柄、仕方のないこととはいえ、釈然としない。卑屈に謙遜する冬月は、汐見の見たい冬月ではない。
 しばし黙りこんだ汐見はふと、冬月の視線に気がついた。
 無意識に膝を叩いていた汐見の指先を、冬月はじっと見つめていた。冬月にとってはこれが、汐見の気持ちを推し測る手がかりなのだ。
 汐見は強く息を吐いた。
 「ありがとう。夜遅いのには慣れているのですが、貴方を心配させたようだ」
 冬月は耳を疑った。
 案に相違して、汐見の声は明るかった。余計なことを言って汐見の気分を害したかと後悔しはじめていたのだが、思い過ごしだったのだろうか。
 それに、“貴方”と呼ばれた気がする。いや、これはきっと聞き間違いだろう。
 「少しの間くらい、私も太夫をひとり占めしてみたかったのですが、…どうやら貴方には気の張るお供になってしまいましたね」
 冬月は今度こそ振り向いた。
 貴族が役者を“貴方”と呼ぶことなど、ない。そもそも貴族は芝居を観ないものだ。直接言葉を交わす機会もなければ、こんなふうに一緒の車で芝居座に送ってもらうなど、あるはずもなかった。
 汐見の声が続いた。
 「もっと堂々としておいでなさい。篠乃井冬月にはそれだけの価値がある」
 冬月は汐見を見つめた。礼儀などどこか忘れていた。
 汐見もまた、冬月の呆然としたまなざしを受けとめた。
 「今日は遅くなってろくに礼もできなかった… 日を改めてお誘いしても?」
 尋ねられた冬月は、驚きと戸惑いとですぐには言葉が出てこなかった。
 が、汐見が人当たりのよい微笑を浮かべて、返事を促すように軽く首を傾げると、冬月の顔にも遠慮がちな笑みが広がった。
 「光栄で、ございます」
 天人のようだ。
 笑顔のまま目を伏せて答える冬月に、汐見はそう思った。
 今夜の舞台で冬月が演じた、桜咲く仙境に住まう天人の、気高くやわらかな表情が重なって見えた。

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