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運命のプランシングホース(6)

■王者の雌伏~前編
50年代~60年代、フェラーリの6連覇、フォードとの死闘で、これでもかと盛り上がるスポーツカーシーン、一方のプランシングホース、ポルシェは何をやっていたのか。

以下、ポルシェ略史である。
 (面倒ならざくっと飛ばしてください。)
創業者フェルディナント・ポルシェは、1875年、当時のオーストリア=ハンガリー帝国に属する北ボヘミア(現在のチェコ西北部)で、ブリキ細工職人の生まれ、並外れた技術者としての才能は少年期から既に現れていたが、工業高校の夜間部卒業後はウィーン工科大学に聴講生として一時大学に在籍したのみで、正式な工学の高等教育を修了することはなかった。
ところがそこから、世界最初のハイブリッドカーやベンツSSKから兵器まで多くの作品を世に生み出すことになる。

1939年のベオグラード・グランプリ(英語版)、タツィオ・ヌヴォラーリによって優勝したタイプ22(アウトウニオン・Pヴァーゲン・タイプD)。ポルシェははなっから約束された王者だったが、それはポルシェのためではなく、アウトウニオンとナチスドイツのためであった。

1931年 シュトゥットガルトに自動車設計事務所として「名誉工学博士フェルディナント・ポルシェ有限責任会社」設立される。
1932年 3.25リッターの8気筒OHVスーパーチャージャー付きエンジン開発(ヴァンダラー社)小型車プロトタイプ完成(ツェンダップ社)
1934年 ヒトラーの国策に基づき、ミッドシップ・GPカーを完成(アウトユニオン・現在のAUDI)
1935年 ヒトラーの国民者構想に基づきフォルクスワーゲン開発
1940年 ヒトラーの命令により、タイガー戦車ほか軍事車両を多数設計。1945年 終戦。ポルシェ博士同僚のピエヒ博士とともに戦犯として逮捕
1947年 釈放。
1949年 業務再開。ミッドシップ4WDツインターボのレーシングカーをトリノモーターショーに出展。
1951年 1月30日、フェルディナント・ポルシェ博士死去。     
    ルマンに初参戦。     
    ポルシェシンクロメッシュにおいて100以上の特許を取得。
1952年 356用に亜鉛メッキアルミシリンダーを採用。
1963年 911を発表。 (設計ナンバー901)
1965年 防錆のため磨きステンレス鋼板のボディを持つ試作車を製作。
1968年 燃料噴射装置およびハイテンション点火装置を標準として採用。 
    チタニウム製サスペンション、燃料タンクを採用。     
    ベリリウム製ブレーキディスクを採用。
1969年 最初のABSをテスト。     
    911全車に4輪ベンチレーテッドディスクを採用。
1970年 914にマグネシウム製リムを採用。
1971年 バイザッハ研究センター活動開始。

これはカーメーカーの年譜とはいえないだろう。フェラーリも特殊だが、ポルシェも元来車売りではなかったということだ。ポルシェは、戦前から天才の名をほしいままにしたポルシェ博士を頼る多くの企業、そしてヒトラーなど権力中枢の政治家から受注を受ける技術屋集団だった。多分、個人でポルシェ博士ほど多くの技術革新を成し遂げた人物は他にはいないだろう。しかも研究室の中ではなく実用化・商品化の中での功績が大きい。ポルシェはクルマ業界におけるエジソンであった。

その傾向は戦後も変わらず、黙々と新技術開発と特許申請にいそしむ。
ルマンに初出場したのは、当のポルシェ博士が死去する、51年になってからである。
戦争が終わり、国威発揚が終わり、活動停止期間が終わり、
忘れた頃にやっと自分のための闘いにめざめた。
長らく雌伏の中にあったポルシェであった。

フォルクスワーゲンタイプ1 もちろんポルシェ博士が生み出した最大の発明は独裁者ヒトラーとのコラボレーションで生み出した、このビートル。ドイツ自動車産業の今日を作った立役者であり、ナチスドイツの忘れ形見でありながら、アメリカの若者にバカ受け。全世界で長年にわたり売れ、単一モデルとして累計販売台数「2152万9464台」という今後も絶対追いつけない大記録を持つ。

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