銀の糸#1:拾

出会った時の気まずさは、言葉では何とも表現し難いものだった。例えるなら、元彼がアルバイトをしている店にたまたま入ってしまったような、告白しているところを母親にたまたま見られたような、なんとも言えない気まずさがあった。

 自殺の名所と呼ばれる場所で、そいつと出会った。手ぶらで、靴を脱いでいた。ああ、同類なのか、と見た瞬間に悟った。静かで、暗くて、深海みたいな色の目と、私の目が合った。しばらく見つめあったというか、睨み合ったというか、気まずい沈黙が流れた。

「……俺が先やで」

「……死ぬのに後も先もあらへんわ」

 びゅう、と風が吹く。一人ぼっちだから死にたいと思ったのに、こんな場所で『仲間』に出会うなんて、ひどい話だと思った。裸足のそいつは、風に前髪を揺らして立っていた。綺麗な顔だった。

「先行くんやったら、はよ行ってや」

 私はその場に腰を下ろした。

「ちゃんと見届けたるから」

「余計なお世話じゃ、アホ」

 男は崖の下を覗き込んだ。月明かりに照らされた男のまつ毛が長い。

「……なんか、やる気無くしたわ」

 ざばーん、と間抜けに波が砕ける。ぺたぺたと、男は裸足のままでこちらに歩いてきた。

「怖くなった、の間違いちゃうんか」

 煽るように言うと、男は鼻で笑った。

「アホ。怖いもんなんか何も無いわ」

 筋張った足の甲。ポケットから覗く、薄い色の眼鏡。月明かりに照らされる唇から、目が離せない。

 男が私の隣に腰を下ろした。誰もいない、暗い崖の上。夢でも見ているような、陽炎の中にいるような、感じたことのない違和感。もしかしたら、これが一目惚れとかいうやつなのかもしれない、なんてぼんやり考えていた。

ひんやりと冷たい冷気が、スウェットを突き抜ける。もう春が近いというのに、海の近くはこんなにも寒い。そいつの唇が微かに震えている。

「……なあ」

  ずっと黙ったままだった震える唇が開く。

「何?」

「俺のこと飼えへん?」

  は、と吐き出した声が情けなく掠れた。潮の匂い。男の口から出た言葉があまりにも異質で、飲み込むことが出来なかった。

「……何言うてんの」

「興ざめや。死ぬ気無くした。責任取って」

「何の話をしてんの」

「だから、俺が今度死ぬ気出るまで俺のこと飼ってって言うてんねん」

 ポケットから片手で取り出した眼鏡をかける。宇宙人を見ているような、そんな気がした。こんな綺麗な宇宙人になら、地球が侵略されても仕方ない気がした。どう答えるのが正解なのか、無い知恵を絞り出して考えた。まず、この質問に対する正解なんて、あるんだろうか。

「……うちのアパート、ペット禁止やねん」

「吠えへんし、粗相もせん。匂いもせん。なんならええ匂いやぞ。嗅いでみい」

「すまんけど、そんな性癖持ってへんねん」

 男がこちらに伸ばした腕を押し戻す。が、それと同時に深呼吸をしてみた。確かに、ふわりと香ったのはローズの香りだった。男のさせる匂いちゃうやろ、と言いかけたけど、声は出なかった。

「俺、見ての通り一文無しやで。お買い得」

「一文無しのどこがお買い得なんや」

 ため息混じりにそう返事する。ふと男の顔を見る。暗い夜の空に溶け込むような目。ずっとその目に釘付けになる。メデゥーサだ、とぼんやり考える。こんな綺麗な顔を見て、石になって死ねるなら、わざわざ海に飛び込んで苦しみながら死ぬより幸せだろう。

「……分かった」

 薄い色素の瞳を、捕らえておきたいと思った。この男を私のものにしたいと思った。そうするには、これしか手段が無いのだ。

「飼うたるわ、あんたのこと」

 男は目線だけこちらに移し、口角を上げた。

「ほな、お邪魔するわ」

 立ち上がり、くたびれたジーンズを叩いた男に続いて立ち上がる。二度と帰ることは無いだろうと思っていた安いアパートの階段を、なぜか私は男と二人で上がっていた。なぜこんな展開になったのだろう。寂しかったのかもしれない、と気付くのは、随分時間が経ってからのことだった。

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「ただいま」

 玄関を開けると共に体にまとわりつくのは、甘ったるい香水の匂い。もちろん、私の匂いではない。

「なんや、思ってたより早かったな」

「……あんた、また私のおらん間に女連れ込んだな」

「ええやんけ。おらん間やったら何してもええ言うたん自分やで」

 宇宙人に部屋を侵略されてから、半年がたった。イト、と名乗ったそいつは、見事なペットを演じていた。上半身裸のまま部屋から出てきて、煙草に火をつけている。ふわりと部屋が白く濁った。だらしない黒のズボンから覗く足首が細い。ソファに座るまでの一連の動作は、まるでバレエでも踊っているかのようにしなやかだった。

「別にそれはかまんけど、匂いだけでも消しといてえや」

 私はパンプスを玄関に投げるように脱ぎ捨てた。イトの隣にどさりと腰を下ろし、横から煙草をひったくる。

「何すんねん」

「御褒美や」

思い切り吸い込めば、喉の奥にたまる煙。イトが家に来てからというもの、私は禁煙するのを辞めた。ガラスの重い灰皿は、二人分の煙草で埋まっている。

「イト、あんたそんだけ人生満喫しとんのやったら、さっさと出て行ったらどうや」

 煙と共にそう吐き捨てるが、聞こえていないようだ。サイドテーブルに投げ置かれた眼鏡をかけながら、ポケットの中の煙草に手を伸ばしている。

 イトは、驚くほど出来たペットだった。散歩の必要はないし、うるさいことも言わない。掃除と洗濯は好きだそうで、私が家を出ると同時に掃除機の音がするようになった。いつもソファの上に積み上がっていた洗濯物は、私が帰宅する頃にはクローゼットの中に入るようになった。料理だけは苦手だ、と言ったので、食事を作るのは私の仕事になった。

 とにかく彼は、手のかからない、素晴らしいペットだ。ただ一つ文句があるとすれば、金遣いの荒さである。

「匂い消せるような何かを買うて帰ってきてや」

「なんで私が行かなあかんの」

 自分のケツくらい自分で拭け、と吐き捨てたら、イトは私に手を差し出した。

「……何や、この手は」

「金。無いねん」

「知らんがな」

 差し出された手を叩いて落とす。

「こないだ私、あんたに五千円渡したやんけ」

「そんなもん、もうあるわけないやろ」

「アホ。五千円がそんなすぐに無くなるわけないやろ」

 一体どこで何に使ってんねん、と言いかけて、押し黙った。顔を上げたら、イトの目があった。深海のような目。まるで槍のように、私を突き刺す目。ブラックホールのように、ただ見るだけで全てを飲み込むその目。ソファごと海に投げ出されたような感覚に襲われる。ふっと顔を逸らしたら、イトがニヤリと笑った。

「俺の勝ち」

 呟くイトを見て、最低や、と思った。でも口には出せなかった。私はイトの前では無力だった。イトの前では、というより、イトの目の前では、という方が正解に近いかもしれない。

「……財布は鞄の中や。勝手にしい」

 誘導尋問されているかのように、私はやすやすとイトに財布の在り処を白状する。

「ありがとさん」

 薄い色の眼鏡をかけた宇宙人は、私の足を跨いで移動し、財布の中から一万円札を抜き取った。

「匂い消す何かに、なんで一万も使うつもりやねん」

 慌てて財布を奪おうとするが、もう遅い。イトはさらりと身をかわして、一万円札をポケットに無造作に突っ込んだ。

「ほんまにええ加減にしいや」

「ええやんけ。お前が苦手な掃除洗濯の給料やと思え」

「時給いくらのつもりやねん」

「ごちゃごちゃ言うなや、御褒美や」

 イトはそう言うと、逃げるようにトイレに駆け込んで鍵を閉めた。なんの御褒美なんや、と呟いたけど、言い返すことはできなかった。

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