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祈り

この記事はみえ様主催の「カニ人アドカレ2023」7日目の記事として参加しています。書き下ろしではありませんが、お楽しみ頂ければ幸いです。

6日目の記事はこちら

◆◆◆

年の瀬を迎えたアガルタの一角にある、狭い木造家屋。
こたつに寝そべりながら煎餅を齧り、テレビを見ている人爬がいる。
部屋の外からガチャリと鍵が開く音。
ズルズルと重い物を引きずるような音がして、長い黒髪を持つ人爬である濡女が顔を出した。

「ヤト様、こんばんは」

ヤトと呼ばれた人爬はむっくりとこたつから身を起こした。

「おお、来たか」

その美しい銀髪はボサボサに乱れ、着物ははだけて胸の辺りまで露わになっている。
その姿に、部屋に入ってきた濡女は眉をひそめた。

「またそんな恰好をされて。だらしないですよ」
「おお、そうか?」

そう言ってヤトは自分の胸元を見る。
着崩れた着物には煎餅や饅頭などの食べかすが沢山ついていたが、大して気にした様子もなくパッパッと払いのけた。

「ずいぶん遅かったな。外は寒かっただろう。早くこっちに来てこたつに入れ」
「恐れ入ります。仕事がなかなか納められなくて、こんな時間に。ですが代わりに良いものを見つけてきましたよ」

そう言ってカバンから取り出したのは茶色い何か。
「お皿借りますね」と盛り付けてこたつに入ってくる。

「はぁー……暖かいですねぇ」
「おい、なんだこれは、食い物なのか?」

ヤトが問うと、感嘆のため息を漏らしていた濡女はこくりと頷いた。

「その辺をうろついていた虫です。見たことのない種類でしたが、美味しそうな匂いがしたので捕まえてみたのです」
「ほう、美味いのか?」
「これが意外にイケるんですよ。ぜひお一つ召し上がってみて下さい」
「ふむ」

差し出された皿の上には甲殻類のパーツのようなものが並んでいる。
ヤトはハサミの部分を手に取り、ゆっくりと口に放り込んだ。

「ん……⁉︎」

二度、三度と噛みしめるヤトの瞳が輝いた。
噛めば噛むほどに濃厚なエキスがじゅわっと溢れてきて、舌の上を浸す。
歯と歯の間に挟まれると、弾力のある繊維がプチプチとほどけていく。
その感触の予想外の心地よさに、ヤトは思わず手で口元を抑えた。

「なんだこれは、めちゃくちゃ美味い……!」
「でしょう? こちらもどうぞ」

パリパリの甲羅の部分を齧る。
これまた中身が詰まっていて美味い。

「こっちもいけるな……もっと食いたい。これは何という食い物なのだ?」
「調べておきます。お気に召して頂けたようで何よりです」
「うむ。しかし、ツマミを食ったら腹が減ってきたな……蕎麦でも食うか」
「いいですね。準備いたしましょう」
「頼むぞ」

湯を沸かした鍋で麺をゆでて、あらかじめ丼ぶりに入れておいた出汁と混ぜる。
トッピングの椎茸や葱、ナルトや鶏肉を乗せれば年越し蕎麦の出来上がりだ。

「いただきます」

二人して手を合わせ、蕎麦をすする。
とりとめのない雑談を楽しみながら酒を飲み交わしていると、ほどなくして酔いが回ってきた。
テレビではニュースをやっている。
爬の国と虫の国の間で行われ、今は休戦状態に入っている戦争は、双方が停戦期間をさらに数週間伸ばすことで合意したという。
しかし国境付近では今も過激派同士の散発的な小競り合いが起きており、予断を許さない状況になっているらしい。
先の戦争では多くの兵士が死に、被害は民間人にも及んだ。
武家棟梁である九頭竜権現が記者会見の場に現れたところで、ふいにチャンネルが切り替わった。

「おや?」

濡女は首を傾げた。リモコンは動いていない。ヤトが念力を使って操作したのだ。
本人は何食わぬ顔で蕎麦をすすり続けている。
ヤトは戦争や争い事の話題を好まない。
本人の口から聞いたわけではないが、過去に何かあったのだろうということくらいは、長く付き合う中で濡女にも察しがついていた。
沈黙が流れ、蕎麦をすする音だけが大きく響く。
濡女はヤト自身が話したくないならそれでもいいと思っていたが、しばらくしてヤトは口を開いた。

「政府の連中は本当の所はどう考えているのだろうな。戦争を終わらせたいのか、それとも続けたいのか」
「……あくまで巷の噂ですが、どうも後者のようです。停戦期間を利用して大攻勢の準備を整えているとか」
「フン、九頭竜の阿呆め。戦などして何になるというのだ。あんなものは続けているうちにどんどん虚しくなっていくものよ」

ヤトはそう言うと丼ぶりに箸を放り投げ、そのまま後ろに寝転がった。
勢い余った一本がこたつの天板の上に落ち、カランと音を立てる。

「ヤト様」
「ん?」
「お行儀が悪いです」
「……すまん、許せ」

それからしばらく何も言わずに天井を眺めていた。
顔が赤い。
だいぶ酔っているようだ。

「ヤト様、蕎麦が伸びてしまいますよ」

呼びかけに反応はなく、仕方ないので濡女は自分の蕎麦をすすることにした。
それからしばらくして、ようやくヤトは話し始めた。

「妾が初めて地上に遊びに行った時、あの島国にはまだニンゲンは一人もいなかった。いたのは象とか鹿とか、そういう大きい獣たちばかりでな。それが今は一億人を超えたのだったか? 随分と繁栄したものだ。昔はゾウやシカくらいしかいなかったというのに。それはそれで初めて見る動物ばかりで面白かったんだが、いかんせん当時は寒くてな。どこもかしこも氷と雪ばかりだった。あれは堪える。妾が寒さに弱いのは知っているだろう? 体の動きは鈍るし鼻水は出るしでろくなことがない。単調な景色にもすぐに飽きてしまったから、暖かい季節になるまで地面の下で眠ることにした。だが次に起きた時には、妾の寝ていた場所は山の下になっていてな。目を覚ましたら真っ暗闇だ。酸素が薄いから呼吸もしにくい。あわてて土を掘り進んで地表に出ると、すでにそこはニンゲンたちの集落になっていた」

濡女は飲んでいた出汁をむせた。

「どうした、行儀が悪いぞ」

その指摘にじろりと睨みつけるような視線を向けつつ、やがて落ち着きを取り戻した濡女は言った。

「……まさか、氷河期の時代からずっと寝ていたのですか? ニンゲンが大陸から渡ってくるまで?」
「そうだ。暖かくなったら自然に目が覚めるだろうと思っていたんだが、ついつい寝過ごしてしまってな。気付いたら大量の土砂の下敷きだ」
「どれだけ熟睡すればそんなことになるのですか……?」
「知らん。昔から寝つきはいい方だったからな。だが本題はそこではない。その後、ニンゲンという生き物に初めて会った時だ」

そこでヤトは苦虫を噛み潰すような顔をした。

「いまだに忘れもせん。妾を見たニンゲンどもの驚きに満ちた顔。目を見開き、妾を指差して叫んだ言葉」

ばけもの、と言ったらしい。

「まあ、ニンゲンから見れば我々は皆そうなのかもしれませんが……」
「卑屈になるな。こちらからすればニンゲンの方こそバケモノと呼ぶに相応しい姿形をしているではないか」
「鱗も牙もありませんしね。見ていると不安な気持ちになります。しかし寝起きにそんな心無い言葉を浴びせられたのでは、さぞやご気分を害されたのではないですか?」
「無論、怒髪天よ。そこで妾はこう言ってやったのだ。『聞け、愚かなるニンゲンどもよ。妾の名はヤトノカミ。地の底にあるアガルタよりやって来た偉大なる神である。無礼なゴロツキどもよ、そなたらは一体誰の許可を得てこの地に居を構えておるのか。ここは妾が最初に見つけた土地ぞ。お前たちニンゲンが生まれるはるか前にな。よって妾の許可なく定住することは認めん。速やかに立ち去るがよい』とな」
「……その者たちは素直に言うことを聞いたのですか?」
「そんなわけないだろう。血相変えて怒り出したわ。『いきなり現れて勝手なことをぬかすな』とな。石を投げてくる者もおったぞ」

それを聞いて濡女は驚愕とも哀れみともつかない、何とも表現しがたい微妙な表情を浮かべた。
畏れ多くもヤトノカミに石を投げるとは命知らずな連中もいたものだ。

「それで、ヤト様はそいつらにどのような仕返しを?」
「奴らの土地に呪詛の力をたっぷりと注ぎ込んでやったわ。おかげで収穫直前の作物はほぼ全滅。かろうじて成った実も砂のような味しかせず、食べられたものではなかった。集落は一転して深刻な飢饉に陥ったのだ」

その間、ヤトは山中に身を隠しながら集落の民が苦しむ様子を見守っていたという。

「とんだ邪神じゃないですか」
「何を言うかこの不届き者め。流石に飢え死にまでさせるつもりはなかったわ。きつく灸を据えてやるつもりではあったがな。泣きついてきたら救いの手を差し伸べてやろうと思っていたのだ。だが奴らはそうしなかった。泣きついてくるどころか、さらに妾に反撃を加えようとしてきたのだ」
「反撃?」
「ああ、流れ者の剣士を雇ってな。まだ年端もいかない小僧だったが、恐ろしいほど腕の立つ奴だった。赤と黒の斑の髪、全身に刻まれた虎のような文様……十中八九、人鬼どもの末裔だろう。どこぞで産み落とされた胤が人間社会に馴染めず、放浪していたのだろうな」
「その人鬼人の子供がヤト様に戦いを挑んできたのですか」
「大方、妾を討ち取れば村の一員にしてやるとでも言われたのだろう。残酷な話だ。喉から手が出るほど欲しい『居場所』を報酬として提示されては、幼い子供には他に選択肢などないだろうに……だが確かにそやつは強かった。妾ですらあわやという瞬間が何度もあったほどにな。未だにその時の傷が疼くことがある。だが結局、三日三晩戦い続けても決着はつかなかった。お互いに傷つき、このままでは共倒れになると分かり、一時休戦することにしたのだ。幾日か休息をとった上で再戦しようとな。そう約束した」

ヤトは住処である山へ戻り、天然の温泉に浸かったり村人たちから奪った山菜や魚を食ったりして英気を養った。
そして数日後、約束した時刻に待ち合わせ場所へ行ってみると、件の少年はまだ来ていなかった。
代わりに別の者たちがヤトノカミを待っていた。

「別の者たち? 誰ですかそれは」
「『小さき者たち』だ。本当の名前は知らん。ぺちゃくちゃと何か喋っていないと気が済まない、赤い虫のような馴れ馴れしい連中だ。そやつらは妾の姿をみとめるなりこう言った。『はじめましてカニ。我々はこの地に誰よりも古くから住む一族カニ。ヤトノカミちゃんよりも前にこの土地にやってきていたのだカニ。一番乗りカニ。聞いたカニよ。この辺りに住むニンゲンたちと争っているらしいカニね。ヤトノカミちゃんが言うように、先に住んでいた方に土地を支配する権利があるのなら、我々はヤトノカミちゃんに退去を求める権利があるということになるカニ。というわけで速やかにこの土地を明け渡してほしいカニ』とな」
「や、ヤトノカミちゃん……? 初対面ですよね……?」
「うむ、もちろんだ。お前がそういう反応になるのも無理はない。妾もあれほど無礼な連中に会ったのは初めてだったからな。こうして思い出すだけでもはらわたが煮えくり返りそうだ」
「……それで、ヤト様はどうされたのです?」
「当然、反論した。お前たちが妾より先にこの土地にいたと、どうやって証明するつもりだ、とな。どうせ無理だろうとたかを括っていたのだが、それは甘かったと言わざるをえない」
「では、そいつらの言葉は本当だったのですか?」
「ああ、奴らは妾が初めて地上に現れた時の様子を子細に語ってみせたからな。実際にその場で見ていなければ知りようがないことまで。だから認めざるをえなかったのだ。降参だ。お前も知っての通り、カミたる者のサガとして、妾は己の言葉を違えることはできぬ。剣士との再戦の約束を果たすことなく、妾はその土地を去らねばならなかった。調子に乗って勝ち誇ったように踊り狂っていた『小さき者たち』を二、三匹叩き潰してやったがな」
「思わぬ展開ですね。それからヤト様はどうされたのですか?」
「憤懣やる方なくてな。そのままアガルタに帰るのも悔しいし、しばらくそこら中に喧嘩を売って回ったわ。今はもう姿を消してしまったが、あの頃はまだ力の強い竜種や人獣族がいたからな。そいつらに片っ端から勝負を挑んで、勝ったり負けたりしながら時を過ごしていた」

そんなある日、大きなヌシとの喧嘩を終えたばかりのヤトのもとに一匹の珍客がやってきた。
ボロボロに傷ついた体を引きずりながら現れたのは、あの『小さき者たち』の一味だったという。
そいつは息も絶え絶えな様子でこう言った。

「謝るカニ。ヤトノカミちゃんには申し訳ないことをしたカニ。我々が愚かだったカニ。実はヤトノカミちゃんがあのボーイと戦っている最中に、村のニンゲンたちが我々に泣きついてきたのだカニ。『どうかヤトノカミちゃんを追い出してくれ』と。我々にとって人類は天敵カニが、あの村には我々にとって重要なお宝が隠されているという情報があったのだカニ。そこで我々は手を組み、ヤトノカミちゃんを追い出すための共同作戦を受け入れたのだカニ。でも結局、奴らは我々をも裏切ったカニ。我々には特高があるからニンゲン相手には無敵カニが、あのボーイだけは別カニ。あれは人鬼人。我々にとっての特攻持ち。あの村にいた我々の同胞はあっけなく全滅させられてしまったカニ。騙して悪かったカニ。それを謝りたくて今日はここまで来たのだカニ」

そういって、その『小さき者たち』は事切れたのだという。
ヤトノカミはすべてを理解した。
自分は謀られたのだと。
正面から戦っても勝ち目はないから、搦め手を使って追い出されたのだと。
再戦の約束を反故にしてまで。
そして、協力者であるはずの『小さき者たち』までも裏切り、滅ぼした。
なんと小賢しく、薄情な生物なのか。
ニンゲンという存在に対する抑えきれない憤怒がヤトの中に湧き上がってきた。

「だから妾は呪詛をかけた。怨念をすべてあの剣士に注ぎ込んでやったのだ」
「……どんな呪いをかけたのですか?」
「……」
「……ヤト様?」
「……『必ず約束を破ってしまう呪い』だ」
「それは……」
「ああ、我ながらひどいとは思っている。まともな生活は送れまい。都合よく利用されたとはいえ、ようやく居場所を見つけられたあの小僧から、妾は恐らく永遠にそれを奪ってしまったのだからな」
「ヤト様は、それを後悔なさっているのですか?」
「……」

ヤトが黙っていると、時計の鐘が深夜零時を告げた。

「お?」
「あ」

アガルタの一年が終わり、正月を迎えたのだ。

「明けましておめでとうございます、ヤト様。今年もどうぞよろしくお願い致します」
「うむ、おめでとう。こちらこそよろしくな」

微笑みながら新年の挨拶をかわす二人。
ヤトが大きなあくびをすると、濡女はこたつから出て食べたものを片付け始めた。

「さて、ご挨拶も済んだ事ですし、このまま初詣に行きませんか?」

露骨に嫌そうな顔をするヤト。

「えぇ、今からか……? ひと眠りしてからでもいいじゃろうが」
「今から寝たら夕方まで起きないじゃないですか。それなら早めに行ってしまいましょう。寝るのは帰ってからにすればいいんですよ」
「うえぇ、めんどくさい……行くなら一人で行ってこい。妾は眠いんじゃ」
「まあまあ、そう仰らずに。さ、支度をしましょう。私も手伝って差し上げますから、ね?」

濡女に促され、渋々といった様子でヤトは出かける支度を整えた。
玄関から外に出ると、ひんやりとした夜気が酒で火照った体を心地よく冷ましてくれる。
二人は連れ立って最寄りの神社に向かった。
深夜だというのに大勢の人爬が出歩き、いずれも少し浮かれたような顔をしながら神社に吸い寄せられるように歩いていく。
境内に入るとすぐに二人は声をかけられた。

「あら珍しい。出不精のあなたがこんな時間にこんな所にいるなんて」

純白の鱗に黒い着物をまとい、太い注連縄を髪に巻きつけたその姿は、神職の亀蛇人爬のものだった。

「明けましておめでとうございます、キダさん」
「おめでとう。今年もどうぞよろしくね。濡女も、ヤトも」

キダと呼ばれた亀蛇人爬は、微笑を浮かべながらそう言った。

「でも本当にどうしたの? いつもは夕方にならないと起きてこないあなたが、今年は随分と早いじゃない」
「私が無理を言って連れ出したんです」
「そうだ、濡女のせいだ。妾の本意ではない。竜種たるもの、本来はもっと悠揚たる態度でおらねばならん。こんな、まるで新年を迎えるのが待ち遠しくて仕方なかったという風に、せかせかと神社に詣でているようではダメなのだ」

キダはそんなヤトの態度を鼻で笑った。

「なにが悠揚たる態度よ。あなたのは単なる面倒くさがりでしょうが」
「ぐぬっ……」
「遠慮せずにもっと外に連れ出していいわよ、濡女。この人にはそれくらいがちょうどいいんだから」
「勝手なことを言う。お前は妾の母様か」

もう良い、行くぞとヤトはその場を離れて拝殿の方へずんずん進んでいってしまった。
慌てて後を追いかけようとした濡女は、キダに呼び止められた。

「ちょっと待って、濡女」
「はい、なんでしょうか?」

呼び止められた理由がわからないまま振り向くと、キダは何かの包みのようなものを抱えていた。
それを受け取り、濡女は首を傾げた。

「これは……?」
「来たら渡そうと思っていたのよ。ちょうどよかったわ」

中身を見ると、袋の中には美味しそうな蒲鉾が氷と一緒に入っていた。
ヤトの好物である。
濡女は思わず口元を綻ばせた。

「きっと喜ぶと思います。ありがとうございます」
「地上から入ってきた物なの。あなたもぜひ一緒に食べてね。いつも一人であの人の世話をするのは大変でしょう。私にはこれくらいしかできないけど、これからもあの人をよろしくね」
「いえいえ、ヤト様は私の大切な方ですから。貴重なものをありがとうございます。帰ったら早速頂きます」

礼を言って、濡女はキダと別れた。
先に行って待っていたヤトと合流すると、「遅い」と文句を言われた。
二人して参拝客の列に並ぶ。
かなり長い列ができていて、拝殿にたどり着くまではしばらく時間があった。

「さっきの話の続きだがな」

濡女が参拝客を眺めていると、ヤトがぽつりとそんなことを言った。

「後悔しているとも。あやつのことを考えない日はない。妾とて心の底ではわかっていたのだ。あの小僧が妾を謀ったのではないということはな。あやつはそういう策を弄するタイプには見えんかった。大方、村の上役たちに唆されたのだろう。居場所が欲しければ妾との約束を破り、『小さき者たち』をも裏切った上で滅ぼせとな。きっと奴も必死だったのだ。それはわかっている。わかっているが、それでも当時の妾は許せんかった。ニンゲンという生き物の卑小さと傲慢さがどうしても許せんかったのだ……」

それきり言葉は途絶えた。
濡女の目には、ヤトが泣いているようにも見えた。

「ヤト様」
「……ん、なんだ?」
「今度、二人で遠出しませんか」
「遠出? 急にどうしたのだ」
「ヤト様と一緒に地上へ行きたいのです。駄目でしょうか?」

ヤトは驚いた顔で濡女を見つめたが、ふと考え込むような表情になった。
参拝の列は進んでいく。
もうじき二人の番がくる。
ヤトが顔を上げた。

「……そうだな。それもいいかもしれん。久しぶりに行ってみるか」
「ええ。私も準備を手伝いますから」
「ああ、頼むぞ」

ヤトはそっと掌を合わせ、何事かを祈っていた。
竜種を祀る神社に爬竜が参っているというのもおかしな話だが、濡女にはそれで良いような気がした。
ヤトが何を祈ったのかは知らないが、できるならそれを叶えてやってほしいと思う。
──きっとそれは、深い後悔と、他人への優しさの心が生み出した、とても綺麗な祈りだと思うから。

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