作品に罪なしというよりも

“作品に罪はあるのか”論争に東映が示した映画メディアとしての答え 波紋はどう広がるか
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=54&from=diary&id=5547432

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落ち度があった本人が責任を負うのは当然として。次に配慮すべきは「作品という人格のないもの」よりも「その作品に関わった方々という人格がある存在」ではないか。

作品に関わった方々という人格のある存在が、大した落ち度もないのに連帯責任みたいに悪影響を受けるのが不合理、非効率、無思慮ではあるまいかと思う。

せっかく作られたものが一部の参加者の不良行為で全部だめにしてしまうのは「過剰な配慮」だと思われる。

槇原敬之氏やアスカ氏の楽曲も別に問題はあるまい。「それを認めると薬物を使って、いわばドーピングでの創作を推奨することになるのでは?」という意見を聞いたこともある。だが、あくまでも本人に落ち度があった場合にちゃんと本人に罰則が与えられている時点で「不法薬物を用いての創作活動」を推奨するとはなるまい。

不法薬物使用は悪いことだから処罰する。創作活動の成果はよいものであれば評価する。シンプルでよいのではないか。

ドーピングによるオリンピック記録とは「比重」に大いに差があると個人的には思う。

CIA(内部監査人)や行政書士資格から「ルールについて」、将棋の趣味から「格上との戦い方」に特化して思考を掘り下げている人間です。