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必死になること

学生の頃、体育テストのシャトルランでいい成績をとりたくて、最後のひとりになってもぜえぜえ言いながら走っていたら、体育館の二階のギャラリーにいた別のクラスの子たちに笑われたことがあった。私のフォームも、真っ赤な顔も、裸足で走ってることも、体からにじみ出るプライドや執念みたいなものも、全部滑稽でおかしかったんだろうなと思う。実際、走り方はいまだにおかしい。似たようなことは、ほかにもある。

なに必死になっちゃって、という気持ちで人を見たことが私にもある。そうやって人の必死さを笑えるくらいに浅はかで無知で、自分が必死になったことがなかったのだと思う。

最近、ブログを読んでメールをくださった方がいた。

その方が読んでくれたのは、半年以上前に書いた、仕事をやめるかやめないか迷っていたころに出会った占い師さんについての記事だった。
その占い師さんは、むかいあっていると暖炉のようにじわじわと体があたたまってくるような気がするふしぎな人で、優しい人柄や鑑定をする時の真摯な姿勢や、その時のなんともいえない良い空気をなんとか伝えたいと思い、そのまま熱烈ラブレターのようにして書いたのだった。

あの記事は今読み返すとちょっと熱すぎて、必死すぎて、恥ずかしい。けれどいただいたメールを読んでいて、その方は私のその必死さや熱さに反応してくれて、わざわざ文字を打ってくださったのではないかと思った。

「思いが人を動かす」とか「熱量は伝わる」とか、すでにいろんな人が書いたり話したりしていてつい自分も知った気になっていたけれど、本当に本当なんだと今さらながら思う。その逆もまた然り。この出来事自体が「必死になってなりふりかまわず書け」というメッセージのように感じた。

あのときのシャトルランは、結局ギャラリーから聞こえる笑い声が恥ずかしすぎて、途中で走るのをやめてしまったんだった。でももう今は、笑われても止まったりしない。


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