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「100万回生きたねこ」と死について

昨日、中田敦彦さんのYoutubeチャンネルで、『100万回生きたねこ』という絵本が紹介されていたので見てみました。

動画の最初にあっちゃんは「泣いた」と言っていたのですが、ただ悲しくて泣ける作品を紹介するような人ではないと思ったので、一体どんなストーリーなのかワクワクしました。

詳しい内容は省きますので、動画のリンク貼っておきます。


あっちゃんが泣いた理由は、悲しいというより、「良かったね」という気持ちの方が大きい様子でした。

主人公のねこは、「死んでは生まれ変わって」をくり返し、100万回生きるわけですが、最後の生まれ変わりでやっと「好きな人(ねこ)」に出会い、それまでの100万回の人生(ねこ生?)では経験してこなかった喜びを得る。

最後には、その大好きなねこが死んでしまい、100万回泣いて、そのねこも死んでしまうのですが、もう二度と生まれ変わらなかった、という結末です。

あっちゃんが言っていたのは、悲しい結末なのに、何故か「良かったね」と思える、ということでした。

ねこは100万回生きたにもかかわらず、どの飼い主も大嫌いで、そのねこが死んだ時、どの飼い主も泣くのですが、ねこは一度も泣いたことがない。

最後の生まれ変わりでは、初めて野良ねこになり、大好きなねこに出会い、愛とか喜びとかを経験した後、大好きなねこの死によって、おそらく初めての悲しみを経験し、そのねこも死んでしまう。

私が面白いなと思ったのは、この作品というよりも、このねこの結末に対して、あっちゃんが「良かったね」と思った点なのです。

ここであっちゃんが見ているのは、【ねこが死んでしまって、二度と生まれ変わらなかった】とか【最後の生まれ変わりでは100万回泣いた】というポイントではなくて、やっと好きな相手に出会えて、家族をつくって、幸せに暮らしていた部分だと思います。

誰かが死んだ時、その人の今までの人生を見て「良かったね」と思えるでしょうか。

どうしても「死」自体が悲しかったり、その人が味わった悲しみや苦しみを想像してしまいます。

「何歳で死んだ」「何の病気で死んだ」「何の事故で死んだ」と、その人が死んだ年齢や、原因となった事故や病気を思い、悲しむことが多いです。

でもそのことと、その人の人生が幸せだったかどうか、豊かだったかどうかは関係がありません。

私だったら、例えば若くして死んだとして、「もっと長生きしてたら」と、「失われた将来」を惜しんで泣かれるよりも、私が生きた人生を見て欲しいと思うのです。

「もっと長生きしてたら」と悔やまれたって、仕方がなくて。

それよりも、自分がどれだけ幸せだったかの方が大事。

なんじゃないかなって。


先日、同級生が亡くなったという知らせを受けました。

「若すぎる」という言葉が、とびかっていることでしょう。

知らせを聞いた時、私はとっさにその人の苦しみや悲しみを想像してしまったのですが、その人やその人の人生について殆ど知らないということに気付きました。

「死」は確かに悲しいし、寂しいことです。

でも、その人のことをちゃんと知らない私に、必要以上に悲しんだり、その人の悲しみや苦しみを想像することは、失礼なのかなと感じました。

きっと、その人の人生には「嬉しいこと」「楽しいこと」が沢山あったんだろうと想像するしかないけれど、私だったらそうして欲しい。

「死んだこと」によって、久しぶりに誰かの話題に上がるのであれば、せっかくなら人生を楽しんだ私を想像して欲しい。

前からそんな風に感じていましたが、今回あらためて思いました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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