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「今日できたこと」を毎日3つ100日間書き出し続けてわかったこと

最近、Twitterで、「#今日できたこと #自己肯定感爆アゲ 」というハッシュタグとともに、今日できてよかったこと、自分を褒めてあげたいことを、毎日3つ箇条書きにしてアップしています。

それがこの度100日を迎えたので、まとめてみることにしました。
100日続けてみての変化、自己肯定感とは何なのか、などについて考えてみます。

●なぜやろうと思ったのか

自己肯定感が欲しかった
・「毎日なにかやる」ということへの憧れ

100日前、「毎日、その日に”できたこと”を3つずつ記録していけば、自然と自己肯定感が上がる」という内容のツイートを見かけ、「やってみよう」と思ったのを機にはじめた100日チャレンジ。

基本的に三日坊主体質で、何かを継続できた経験が少なく、「自分には、”何かを毎日続ける”というストイックな取り組みは無理だ」という思いがあったので、これまで「毎日チャレンジ系」には消極的でいました。

この時点ですでに自己肯定感の低さが垣間見えていますが、そんな自分を少しでも変えたくて、やってみることにしました。

●やってみてどうだったか

・テキストにまとめるだけなので継続しやすい
・なんもしてない日でも意外と3つ書き出せる
・嘘をついているようでしんどい日もあった

毎日イラストやロゴなどの制作物をあげるわけではなく、ただテキストで箇条書きにしてツイートするだけなので、手軽で継続しやすかったです。
三日坊主のわたしでも、100日続けることができました。

最初の1か月くらいは、「今日はこれをつぶやくためにこれを達成するぞ!」という、レコーディングダイエットに似た感覚になることがあり、積極的に物事に取り組めていたように思います。

しかし、時には一日中ゴロゴロしていたり、本当になんっっっっっにもしない日もありましたが、そんな日でも「無理せずゆっくり休めた!」などと無理やり正当化してつぶやいたこともありました。
たまにはそんな日もあるよね、それでいいんだよって、自分で自分を許せた日もあったけど、逆に、ただだらけていただけなのに無理やり正当化して、嘘をついているようでしんどい日もあったりしました。

●自己肯定感と自信はついたか

・自己肯定感は思ったより上がらなかった
・「毎日続けた」という自信はついた

#自己肯定感爆アゲ  というタグを付けていたものの、自己肯定感が爆上がりしたかと聞かれれば、意外とそんなこともなく、「それでいいんだよ」と自分で自分を励ますというか、元気づけることができる程度でした。

逆に言えば「今日はなにもできなかった…自分はなんてダメ人間なんだろう…」と落ち込むことの防止にはなったので、そういう意味では多少は自己肯定感は上がったのかもしれません。

あとは単純に、「(苦手だと思っていた)何かを100日継続することができた」という自信はついたと思います。100という数字は、自信のないわたしの背筋を少し正して胸を張らせてくれるものになりました。

結論としては、少なからずプラスにはなったので、やって良かったな、というところです。

●自己肯定感について考える

わたしは基本的に自己肯定感が強い方ではないので、デフォルトで「どうせわたしなんか…」という思考が装備されています。

それに相まって「謙遜は美徳」という思想もあり、自信をもつこと、胸を張ることが、がめつくて美しくないことだ、という考えを持っている部分があります。

「部分がある」という表現をしたのは、100%そう思っているというわけではなく、その考えを否定したい自分も存在しているからです。

「謙遜は美徳」という思想をこじらせると、褒めてくれる人、応援してくれる人の好意を否定することになるし、なにより自分の可能性を狭めることにつながると考えています。

「謙虚すぎるのって嫌い。嘘と一緒じゃない!」というフレーズをご存じでしょうか。
「レミーのおいしいレストラン」のコレットのセリフです。
謙虚や謙遜といった価値観が美しいと信じて疑わなかったわたしにとって、この言葉は衝撃的なものでした。

わたしが長い間大切にしていた価値観は、嘘をついて、人の好意を否定してまで貫く価値のある美徳なのか?

「謙遜は美徳」という固執した価値観から抜け出し、相手の好意を素直に受け止められる自分になりたい。せっかく褒めてもらえた自分の「いいところ」を殺してしまうような自分を変えたい。

そのためには、自分に自信を持つこと、自分にも良い所はあるんだ!と思えるようになること、即ち、自己肯定感を上げることが大事なのではないかと思うようになりました。

たとえば、「その服かわいいね」と褒めてもらえた時。
以前なら「そんなことないよ!」と即座に否定していました。わたしのなかで、「わたしの服なんかかわいい訳がない」と思っている自分が主導権を握っていたから。

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しかし、ある時から、褒められたときに「ありがとう!」と素直に返すようにしました。「でしょ!この服お気に入りなの!」と思っている自分に主導権を握らせたのです。だってそもそも気に入ったから買った服だし、かわいいと思って着てるんだから。それなのに「そんなことないよ!」というのは、それこそコレットの言う通り、嘘なんですよね。

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それからというもの、少しずつではありますが、なんとなく心がラクになってきたように思います。

何かに失敗したとき、やろうと思っていたことがうまくできなかったとき、「こんなこともできないなんて自分はなんでダメ人間なんだ!」と自分を責めている"自分A"に対して、「ちょっとハードルが高すぎたね。ドンマイドンマイ!」と励ます"自分B"。

本来"自分A"のほうが強いので、意識して"自分B"の発言権を強くするようにしました。

この100日チャレンジは、そういう思考の訓練だったように思います。

自己肯定感。自己を肯定するマインド。「それでもいいんだ」と自分を理解し、許す姿勢は、わたしのようなネガティブ人間には、そう簡単なことではありません。ちょっと油断すると、すぐ「自分はダメ人間だ…」と"自分A"がわたしを苦しめてきます。

●自分で自分を苦しめない生き方を

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昔のわたしは「謙遜は美徳」という価値観に加え、「人間は常に努力をして、辛いことに耐え、頑張る生き方をしなければならない」というストイックな考えを持っていました。

自分で自分に、勝手に高いハードルを課していた割に、実際はそんな高いハードルを超えられる技量も根性もなかったわけです。自分の理想に現実が追い付いていないというか、相性が悪かった。

そのギャップに苦しみ、「自分はもっと頑張らないと、辛い思いをしないといけない」と勝手に思い込み、自分で自分の首を締めては、また苦しんでいました。

でもそれってあんまり意味ないな、別に頑張らなくても手に入れられるものはあるし、楽観的に生きる方法もあるよね、たぶん自分はそっちの方が向いてる気がする。

そう思えてからは、「〜すべき」という偏った固定概念からは抜け出すことが出来るようになってきたし、なにより人に優しくできるようになりました。

「こんな事も出来ないなんて、自分はなんてダメ人間なんだ…」と自分を責めることの原因だった、ガチガチの固定概念を、当たり前のように他人に押し付け、「こんな事も出来ないなんて、あいつはダメ人間だ!」と思ってしまう。それは自分にとっても、とてもしんどいことでした。だって常に何かに対して憤ってるわけだから。

人間なんて、みんな違ってみんないいんだから、自分の物差しで他人を測ることは愚かな行為なわけです。

それと同時に、他人の物差しで自分を測ることも

他人は他人だし、自分は自分。それでいいじゃないって。

頭ではわかっていても、根はネガティブ人間なので、なかなかうまくはいかないけれど、元気がない時こそ、ポジティブな"自分B"を叩き起こしてきて、自分で自分を許し、励まし、しんどくならないように調整しながら生きています。

これからも意識的に、"自分B"と仲良くしながら、ダラけそうになった時には、"自分A"に「おいこらダメ人間!」と、お尻を叩いてもらおうと思います。

そうやってうまくバランスを取りながら、うまく生きていく術を磨いています。自分で自分を苦しめないような、ラク〜な生き方をしたいものです。



いいんですか!?