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透明な弾丸

今日は村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき』を読んだ。

村上春樹というと、新刊が出るたびに猫も杓子も、と書店のフロア中が沸いている印象で、私もまたそれをしれっと横目に見ている側の多数のうち一人だった。この著作についてもそれは例外ではなく、しばらくは「やってるなあ」という気持ちで平積みにされている様子を眺めていた。

ただ少し前に、紀行文集(『ラオスにいったい何があるというんですか?』)や読書案内(『若い読者のための短編小説案内』)を一読した際、彼の文体にある平易なのにグッと心に迫るリズムや、気楽だけど品のある雰囲気に見逃せないものを感じ、作品をもっと知りたいという気持ちから入手を決めたのだった。見たところ小説でなかったというところも、いくらかハードルの低さにつながったと思う。この頃は、何か物語に触れるのが億劫な気分だったから。

本作はハードカバーの新刊だけれど、長編小説のそれらよりもずいぶんと小ぶりだ。装丁の手触りや風合いは上品で落ち着いていて、どことなく詩集や歌集のような佇まいであるのも、なんとなく良いなと思った。内容は特に詩的というわけではなかったが、いずれにせよ書籍を手に入れるとき、それを「ものとしても所有したいと思えるかどうか」という感覚は、案外大事だと思う。

本作を読み始めてすぐ、結構な序盤に「猫を棄てる」エピソードが始まって、終わって、ああもうタイトル回収しちゃったよと焦ってしまったけど、読み終えてみるとそこは特に気にしなくてもいい箇所のようだった。


筆者はあとがきの中で、当該作品を"いわゆる「メッセージ」として書きたくはなかった"と述べている。その箇所にまで至ったとき、私は本作を手に取ってから読みすすめる間に抱いていたかすかな違和感に名前がついたように感じた。メッセージ性の排除とは、一読したのちにあらためて装丁やタイトルあるいは帯文を眺めなおした際に感じとれる印象とも一致する。
その"いわゆる「メッセージ」"とは何か。まずは本編中の記載である以下の箇所をご覧いただきたい。

"そのような父と子の葛藤の具体的な側面については、僕としてはあまり多くを語りたくはないので、ここではごく簡単に触れるだけにする。"
"細かく話しだすとかなり長い、そして生々しい話になってしまうから。"

だいぶ読みすすめた頃にぽつりとこんな記述があって、私はまず一度、彼の意図や本作品のデザインに対して合点がゆく思いがした。本作から意図して排除がされていたものの一つが、この"生々しさ""父と子の葛藤"という要素なのだった。

人の、実際に経験したことの集積というのは、具体的なエピソードを記述する中に生々しい感触やリアルに香り立つ匂いを発しながら存在する。してしまう。エッセンスを抽出して一般論として扱う際には捨象されてしまうディティール(ここでは過去や経験の具体的な感触や匂い)が、エピソードの記述にはそのままの姿で存在してしまう。
「親子の」「父と子の」という言葉を冠した瞬間に、付与されてしまうどこか生々しく俗な印象。それは過度に平和的に描かれる団欒なのか、あるいは過度に脚色された衝突なのか。いずれであっても、それらの単純で一意的なイメージが、本作で筆者が描きたいものを覆い隠してしまうのだろう、ということは想像に難くなかった。

本作では、著者が自身の父親について、抽象的な内容を論じるというよりも実際にあった姿や事実を丁寧に追いかける内容になっている。著者自身が父親について見聞きしたことや記憶の中の体験、あるいは客観的に残された事実や記録をもとに、父親と彼の一族の出自、実際の足取り、当時の"所属"等の痕跡をこつこつと辿る。
そこでもやはり、持ち出されるエピソードや明らかになる事実においては意図して私的な感傷や描写が排されており(その理由は筆者が言及している通り、"僕としてはあまり多くを語りたくない"のだろう)、あくまでも「一人の人間の半生を追った記録」に終始している様子がとても印象的だった。

そして、半生の記録を辿った先に見えてくる事実、そこには常に時代の動きが切り離せなかった。
彼の父親のすぐ横を、透明な鋭い弾丸がいくつもかすめて(そしてその多くが貫いて)いった。それらはいわば運命の弾丸だった。

本作のデザインにおいて、筆者が避けたもう一つの「メッセージ」である。

"僕がこの文章で書きたかったことのひとつは、戦争というものが一人の人間——ごく当たり前の名もなき市民だ——の生き方や精神をどれほど大きく深く変えてしまえるかということだ。"

———あとがき「小さな歴史のかけら」より

筆者は、本作品の中核を成す"父と子"そして"戦争と市民"という要素から、誤って一意的なレッテルや感傷を導いてしまうことをなんとしてでも避けたかったのだと考える。
鋭く放たれる運命の弾丸によって、ある一人の人間がいったいどのようにその生き方や精神を弄されてきたのか。その真率たる記録こそ、本作で筆者が「メッセージ」を排してまで正しく届けたかった本質なのだろう。


このような形の作品に触れたことがあまりないので、私は自分の中にまだ形の定まった感想をもつことができていない。が、先に挙げた通り、そもそも本作は読者の決まり切った受け取り方を望んでいないのだと思う。

"父の運命がほんの僅かでも違う経路を辿っていたなら、僕という人間はそもそも存在していなかったはずだ。歴史というのはそういうものなのだ——無数の仮説の中からもたらされた、たったひとつの冷厳な現実。"
"歴史は過去のものではない。それは意識の内側で、あるいはまた無意識の内側で、温もりを持つ生きた血となって流れ、次の世代へと否応なく持ち運ばれていくものなのだ。"

———あとがき「小さな歴史のかけら」より

手垢のついた"戦争と市民"というレッテルを貼らない状態で、時代と人、歴史と人間とのあり方を見つめること。

そういった事実を、——娯楽という規格に沿って成形されたものではない、ほとんど事実という素材の形を残したまま届けられた作品を手渡されて、私はこれから何を考えるだろう。
私の中の何が、呼び起こされるだろう。


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