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Nという人々

自分の話をするのが苦手だ。リアルの、生身の人間と過ごす会話の中で、自分だけの尺を分けてもらって、自分だけの話をするのが苦手だ。
だって、注目されたところで、私の言葉は伝わらないから。どうにか言葉を引き寄せて表現をしても、一見しただけの多くの場合、要領を得ない顔をされるか、何を言っているんだと一笑に付されて流される。なんだ、苦手だのなんだのといったところで結局そんなことがこの話の全てかよ、そうなのだけど、やっぱり私の言葉は人に伝わらない。

会話にはいつでも相手が必要だ。そこにいる相手の話の手を止めてもらって、自分のためにせっかくの時間を使ってもらっても、私が彼らに手渡せるのは、せいぜい記憶の形を描こうとしたようなスケッチだけだ。自分が感じたままを、ありのままに書き留めた言葉を手渡しても、それが人に対して明確な形や意味をなすことは少ない。

それは、私の感じ方がそもそも抽象的で概念的だからだと思う。現象を、そのままのローデータではなく次元が異なる形態に変換して取り込んでしまう。事象よりも印象を、物体よりも概念を。現象というローデータがアナログ信号だとすると、私はそれを暗号化した状態で感知をする。私が受け取った暗号化データと、人が人とやりとりするアナログ信号とでは形式が異なるから、そのままの姿で差し出してもそれが情報として認識されることは難しい。暗号化されたスケッチ。元はそれぞれ形態の異なる事象でも、暗号化すると同じデータに帰着することがある。
これは、微分のような働きだと思う。見かけの形態が違っても、根底の本質が同じであるという発見。一見何の関連もない事象の間に共通する特徴や本質が見つけ出されるのは、感知されエンコードされた結果同士を見比べた時だ。異なる形態で描かれる曲線同士の、ある点での接線の傾きが一致すること。見た目は関連のないものの、レイヤー(次元)を一つ下った姿が重なるということ。
私が主に感知しているのは、おそらく、微分の処理を行ったあとの事象だ。具体の事物から輪郭を取り去って、色彩や印象のレイヤーで捉えた姿が私の意識に描かれる。
そうやって普段はエンコード化されたデータを取り扱っているものだから、データをデコード(復号)して人に手渡せる形に加工する際には「どんな形式が適切なのか?」という戸惑いが生じ、それが咄嗟の反応においては無視できないラグになる。見よう見まねだから、何が適切なのかは考えてみないとわからない。それに、どうしても複数回の加工を経ているから、元のアナログ信号に近いなめらかさを再現することができない。微分→積分の復元工程をふむ際、元の形態は維持できていても、どうしても抜け落ちて失われてしまう箇所がある。

だから私は、感じたことを無加工で、感じたままの勢いで表現することが苦手なんだと思う。
(そういう、率直で素直な感性を持つ人のことを羨ましく思うこともある。いつでも誰にとっても疑いようなく、わかりやすいから。)

私は自分の話をするのが苦手だ。
それは、私の感じ方が暗号化されているから。自分が普段捉えている情報が、他人のそれとは異なる形式であるから。伝えるためにデコードをしてみても、そこに復元されるのは、他の人よりずいぶん不恰好な形のアウトプットだ。

私は見よう見まねで「感じたまま」の再現を試みる。会話の中でただ一度限り巡ってくるターンのわずかな間に、私は私の中にあるイメージを十分に表現することができない。

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