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夢で会えたなら何を話そう

シンを観たよの話。

シリーズ通して追っかけてもない新劇もとびとびしか観てない(Qを履修していない!)という体たらくなので、そんなに実のあることは言えません。ふせったーであげようとしたけど、読み返すときがあれば探すの面倒だなと思ってほぼそのまんまnoteに転記してる。だから媒体の問題であって全然note然とした記事じゃない。あと、このごろ言語野がずいぶん後退気味で刺激耐性なさめなので、散文の構成が本当にできない。ここまで読んでもらったのも申し訳ないので先に謝っておきます。そういえば今日、劇場がなんかすごい酸素薄くて頭クラクラして、そりゃwithコロナ時代に稀に見る密度で同じスクリーン観て同じセリフ同じ瞬間に息を呑んだらそらそうなるわな……と妙に納得してたんですが、たぶん映画館の換気頻度ってすごいし単に画面音響酔いしただけの可能性が高い。その刺激もだめなのかよ。でも、「引きでみたい画が多いから座席後方めがおすすめだよ〜!」って言ってた名もなきオタク集合知ありがとう。苦しみながらも全身でいい画を浴びることができました。いつか補完されるときにお礼をするね。

そんで、観て直感的に思ったのは、シリーズにもキャラクターにもファンダムにもお弔いを出してやるような構成だということ。それでなのかな、語る隙もないぐらい綺麗な気持ちでいる。原子でいうと最外殻に電子が8つ過不足なく埋まったかんじ。心の閉殻構造、オクテット、すっきりと晴れわたる調和。それはもしかしたら、本編も劇場版もまじめに追っかけてなかった怠惰な視聴者だからかもわかんないけど。私はこの気持ちに、どんな言葉を付け加えたらいいのかわかんないな。それってシンジくんが、最後に一人ずつみんなを見送るシーンのそのまんまなんだけどね。それは、生み手から、子である作品世界に対する最大の贈り物のよう。劇中の、子が父へ引導を渡すのとは対照的だ。いや、むしろ同一なのかな。作品という親に育ててもらった作り手が、親を殺して世界を殺して、続きをさせてやる。終幕の続きを。作中に留まっているかぎり誰も見られなかった、景色を。時間を。命を。そういえば、ゲンドウの独白が挟まるとは思っていなかったからとても驚いた。多分そこの構造にハッとした。時間が留まっていたのは彼だったのかと。アスカが言い捨ててった「母を求める子」とはゲンドウだったんだね。実は、独白シーン観てるときには「演出だいぶ親切だなあ」と、まあやや冗長に感じてしまったんだけど、きっとその辺も含めて『人口に膾炙した作品としての』風呂敷の畳み方、だったんかなあと思う。エヴァって何起こってるかわかんないよね〜って散々苦笑してきた人たちに向けての。で、手法はともかく、私はそのシーン観てる時、ああ彼の独白でいったいどれだけの人が身に刺さるものを感じてるんだろうって思った。本作は、先の独白然り、時の止まったチルドレンと大人になったトウジたち然り、観客やファンダムを強く意識しているような気がする。もともとのスタンスからもしかしたらそうだったのかもしれないけど。「お前たちのことも言ってるんだよ」って意識するような色合いが強く感じられる。作者が息の根を止めたのは親、作品であり世界でありそこに心を留めるファンたち。子から父にできることは2つ、だったよね。おそらく百万回言われた猫だと思う、でもきっとそうだとしてもこの箇所がサビだから仕方ない。最終シーンで彼らが、その先の時間である新世紀を手に入れて、物語の畳み方そっち向くんだ?とかなり意外だったけど、なんか、彼らにその世界線を与える選択をした監督のこと考えると感慨深いね。あなたはちちははをふり払って旅立つんだね、って思った。

「さらばすべての〜」のコピーはそのまんま、劇中ですべてのエヴァンゲリオンから決別したことを指すし、それは「母(グレート・マザー、テリブル・マザー)」からの旅立ちでもあるんだろうな。あっ、第3村での暮らしも「子を養育する母親」「農作業に従事して大地の恵みを育む女性」「どんな存在でも分け隔てなく無条件に受け入れ守る母性」という複数の角度から母感が重ねて重ねて演出されていたよね。主に村の大人の描写で。

そういえば今作では、関係する名付き以外の大人、すなわち社会が登場するところに『セカイ系』から大きく進展する気配を感じた。セカイ系、それは僕と君と世界の危機という構図であって、そこに「社会」という中間層が抜け落ちている物語構造なはずだから。極めて主観的、他者の目の不在する物語。セカンドインパクト後の第三新東京市には一般市民は描かれていなくて人類の半数が滅んだことが強調されていたし、シンジくんが他者を拒み続けたのもそういうことで、今作でミサトさんやゲンドウが頑なに目線を隠していたのもきっとそういうこと。なのに、第3村にはたくさんの第三者がいて、豊かな眼差しがある。綾波そっくりさんは、ことあるごとに「それってなあに?」と見つめて問うし、村の人たちはそれに目を合わせて応答する。応答するだけでなく、呼びかける。手渡す。名前を問う。言葉をとりかわす。豊かな社会がそこには展開されていて、繰り返し行われる「対話」の存在が強く印象付けられている。

母性に話を戻すと、トウジやアスカや綾波そっくりさんが、第3村でのシンジに対して執拗に「食」を介して干渉していたのも「養育する母性(≒地母神)」というテーマが繰り返し演奏されているのを感じた。水しか摂取できないアスカに対比させられてるシンジは、まだ食を必要とする存在、大地や豊穣といった恵みによって生かされる必要のある存在、母を必要とする子供としての存在。対置されるアスカは「水以外を必要としない」「先にに大人になってしまった」と言っていた通り、もはや母を必要としない一歩先の存在だったんだろうね。村での仕事に参加しないのも、村という母性の庇護外に身を置いていることといえそう。そして、心を閉ざしたシンジを突き動かしたきっかけの一つも、釣りという、食事を確保するための生存活動だった。そして、加持リョウジ(子)の存在と引き合わされたことで、母、すなわち子をなし次世代へ命を繋ぐ存在がさらに印象付けられる。綾波そっくりさんの消失、終盤のミサトさんの特攻(息子の写真が飾ってあって、母であることが強調される)。シンジくんの背中を押し、彼によって乗り越えられていく「母」の描かれ方は相似している。慎ましやかながらも互いに認め合い、温かい母性に満ち足りた第3村での生活も、やがて終劇には現代によって乗り越えられてゆく。

順番が前後して最後に戻ってきたけど、母、特にゲンドウが渇望してやまなかった「母」としてのユイ、その最後までの描かれ方。観賞後ふわふわとしながら直感的に思い出したのがYUKIの『長い夢』だった。奇遇なことに、母からもう会えない子への感情をうたった歌だけど。その詞の多くが、遠く会えない母を追い求めるゲンドウや、本作全体に擬えて響くような気がした。

バイバイ、長い夢。そこへ行くにはどうすればいいの?いつか完璧な環になるようにね。

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