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ステルラハイツ6322

 たまこはこのところ疲れていた。

 それは長引いている梅雨の影響もある。何日も続けてどんよりと重い雲が広い空全体を覆っているのを見ると、朝一の掃除も今ひとつやる気が起こらずに、適当に済ませていると、窓辺や天井の隅に出現するクモの巣にイライラしたり、揉み出さずに汚れたまま放置された雑巾を見つけてため息がでたりする。他の住人はもとより朝早くにはほとんど起きて来ない。特にダリアはこのところ外泊も多く、帰ってきてもリビングにはあまり居着かずまともに話もしていない。

 月経が予定より遅れているのもある。まさかとは思うが、不安の種は想像の花を咲かせる。

 少し前にマサが友達を連れてステルラハイツにやってきた。その日はミミ子の麻雀大会も開かれて、合わせて10人ほどのゲストが集まり、久々に賑やかな夜になった。マサの友達は老若男女入り交じって4人、みんなとある大手のスポーツメーカーに短期や長期で雇われて、同じプロジェクトに関っていると言っていた。みんなで食事をしながらお酒を飲むうちに、その中で一番若い、髪をツンツン立てた奴が、たまこに言い寄ってきた。話をするとたまこよりも6つも下だということが判明し、奴はそのことに大袈裟に驚いて、たまこのことを、若いだの、かわいいだの、とさんざはやし立てて褒めているつもりのようだった。酔っぱらったマサは「だめー、たまこは俺の」とかなんとか言いながら奴を牽制していたが、しばらくすると酔いつぶれて倒れた。その後も奴は、マサのように大胆なボディタッチはないにしろ、ねえねえねえと、何かにつけたまこに付きまとった。奴のパッと見た感じは好みじゃなかったけれど、尻尾を振って追いかけて来る犬のようで、たまこは次第に可愛く思えてきた。
 ミミ子の部屋では勝負も佳境に入っていた。一緒に飲んでいたJINちゃんも23時を過ぎた頃に、眠いと言って部屋へ引き取った。リビングで飲んでいた他のゲストもだんだんソファーや床に横倒れになっていき、たまこはみんなに布団を掛けたり、食器を洗ったり、片付けを始めた。リビングで起きているのが二人だけになると、奴は、食器を下げたりテーブルを拭いたりするふりで、たまこの方をチラチラと見ながら、明らかにソワソワしだした。たまこは笑いをこらえきれなくなった。
「たまこちゃん、何笑ってるの?」
 驚く奴を見ていたら、たまこはちょっとからかってみたくなった。
「あんた、わたしとセックスしたいのか?」
「うん」
 今度はたまこが驚くほど速く奴は答えた。奴の後ろで見えない尻尾がぶんぶん振り回されているように、たまこには見えた。うーん、それでも、からだを重ねれば、結局情が移って、疲れてしまうのは自分。たまこはそんな自分をよく知っていたから、寸止めにしよう、と心に決めた。
「どうしよっかなー」
 洗い物をしながらたまこが迷っている振りをすると、奴は「いいじゃんいいじゃん」と言ってすり寄ってきた。よく見ると犬というより猫に似ている。
 たまこは次第に気分がよくなってきた。こうも屈託なく無邪気に求められると、女冥利に尽きるというか、女性ホルモンが分泌されるというか、つい、あげたろうか、なんて気になるのが女の性なんじゃないか。まあ寸止め。
「もうちょっと飲もう」
 そう言ってたまこはワインセラーを開けた。もう相当酔ってはいたけれど久しぶりに気分がよくて、お気に入りのワインを開けたくなり、いくつかのボトルを確認して、そのうちの一本を取り出した。アルザス地方の白ワインは、一度飲んで「美味しい」と歓声を上げて以来、とっておきの一本としてキープしていた。それを、開けてしまうなんて、どうかしてる。自分で自分に突っ込みつつ、たまこはシュポンとコルクを抜いた。

 その後のことはほとんど覚えていない。とっておきのワインの味だけは舌に何度もよみがえる。後は。

 明け方に目を覚ますと、彼奴の顔が上にあり、なんだか少しだけ「入っている」感じがした。夢のような気がして、一度だけ奴の名前を呼ぶと、奴は「あ」とつぶやいて、すぐに体を離した。一瞬の出来事だった。たまこは、自分の部屋に居ることを確認して、もう一度眠りに落ちた。
 再び目を覚ますと、傍には誰も居らず、起きてみると頭が重く、グラングランと視界が廻った。こんなに酔ったのは久しぶりだ。昨日着ていた長襦袢ははだけることもなくしっかり腰紐で結ばれたまま、パンティは履いていなかった。さっと膣を確認してみたが、特に何者かが侵入した痕跡や実感はないように思われた。ベッドサイドにはとっておきの空瓶とグラスが2つ、残されていた。

  それから2週間ほど経つ。彼奴からは何の連絡もない。体からの恒例のお知らせもない。あれは何だったのだろうと思うけれど、それで落ち込むほどたまこも若くはない。

 ただ、寸止めは成功したのか、それとも性交だったのか、それが問題だ。

 こういうことはダリアに話して笑い飛ばして欲しかった。そんなダリアは昨日も遅くにそんなダリアは昨日も遅くに帰って来て、ムッツリ黙ったまま赤い扉の向こうに消えた。最近はずっと機嫌も悪いしろくに話もしていないが、仕事はうまくいっているようだ。部屋に入ると、しきりに誰かと電話で話しているか、唄を練習しているか、どちらかの声が聞こえる。家族のようになってもゲストはゲスト、余計な詮索はしないということは、ミーコおばさんからも言われてきた。

 素麺でも食べようと、キッチンに立つ。億劫うがってでもここに立つと、たまこの気持ちは前を向く。鍋に水を張り、火にかけて、小さな泡が上がり始めたら鰹節を一握り加え、湯が沸き立ったらすぐに火を止めて、しばし置く。あら熱がとれて節が沈んだら笊で濾して、そこへ醤油と味醂を加えておく。出汁を取った後の鰹節は、庭先に出しておくといつの間にか野良猫が食べる。母から送られて来た木箱を開けて、素麺を2輪取り出して茹でる。凝った具を用意する気にはなれないので、胡瓜を薄切りにして浅葱を刻み、少し頑張って白ごまを擦る。香ばしい匂いにつられてお腹が鳴る。
「コンニチワー」
 ぺろりと平らげると、ワンさんがやって来た。「素麺、食べる?」と聞くと「イイデスネ」と答える。たまこはまた2輪、素麺を茹でて、少し考えて辛み大根をおろす。ワンさんは「サッパリシマスネ」と言って、ニコニコしながら平らげた。そして「タマコサン、マッサージスルヨ」と言うと、クイッと首を傾げて顎でソファーを指し示す。たまこは有難くその申し出を受けてソファーに腰を下ろす。
 ワンさんがあらためてたまこに声をかけるのはこれが2度目。まず肩に手を置かれると、何ら動きを加えられたわけではないのに、自然と力が抜けていく。ああ、力が入っていたのだな、とその時にわかる。少し揺らされると、体の芯が柔らかく波打つ。
「タマコサン、ツカレテタネー」
 たまこはもうすでに目を閉じて、意識はどこか遠くへ行きそうになりながら、コクンとうなずく。ワンさんは、温かく大きい手でゆっくりとたまこの体を支えながら横たわらすと、まさにそこというポイントを探り当てて、根気よくも決して力を加えすぎることなく揉みほぐしていく。どこが悪いとか、何がいけないとか言うこともない。ただ心地よい波に身を任せていると、触られているところから離れた体の奥が温まり、緩やかに力がみなぎってくる。
 ゆるんだからだを横たえて、ワンさんの手をお腹の上に感じていると、たまこは自分が湖に浮かんでいるような、さらには自分自身が湖であるような感じがした。呼吸の音しか聴こえない、静かな静かな境地で、細胞が息を吹き返していく。どれだけの時間が経っているのか気にすることもないまま、肩から背中、仙骨から背骨を上がって、首と頭、顔の中心から外へ、耳を軽く引っ張られるまで、たまこは吐息を漏らしつつも言葉を発することもなくワンさんに身を任せ、
「ハイヨシ」
と言われてハッと目を開けた。口の端からはよだれがこぼれていた。体は宙へ浮かび上がりそうに軽く感じた。「ありがとう」と起き上がろうとすると、軽く制されて「アトハ足モネ」と言われるままに今度は足を差し出す。
「タマコサン、コノ家ノマスター。イツモミンナノコトミテル。」
 ワンさんは、たまこの足の指をコリコリと回しながら話しかける。たまこは何か答えようとするけれど口から出るのは「イテテ」のみ、後は声も出せずに体をよじるばかりだ。先ほどまでの施術とはうってかわって、足揉みの刺激は激しい。
「足ハ、スコシコラシメル」
 ワンさんはそんなたまこを見てニヤニヤしながら手を使う。痛い、しかし、気持ちがいい。たまこがもはや笑い声をあげながら悶絶していると、
「おはよー」
と声がして、紫の部屋からミミ子が登場する。たまこもワンさんも答えずにマッサージが続いていた。ミミ子はそのままリビングへ下りて来て、たまことワンさんの近くへとすんと腰を下ろす。黙って二人を見ているミミ子の目つきは少しだけ冷ややかだった。

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