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人生の分岐点

記念すべき!初めてのnote、というか初めてのブログ!(笑)

会社を退職し時間ができた今、これまでの思いを振り返ったり、新しい発見が出てきたりして、なんか言語化して残したいなと思い、えいやーと勢いで始めてみました、どうか温かい目でお守りください(笑)

先月の半ば、約3年弱勤めた会社を退職しました。理由は2つ。

①学生時代から抱いていた「国際協力の道」にそろそろキャリアチェンジしたかったから。

②前職の仕事にモチベーションが保てなくなったから。(多分①に関連する)

本記事では、自分がなぜ国際協力に興味を持ち、このタイミングでキャリアチェンジしようと思ったのか、これまでの過程とこれからをつづりたいと思います。(長いですご容赦ください)

自分がいわゆる「国際協力」に興味を持ったきっかけは、大学1年生の春休みに参加したフィリピンの貧困地域でのスタディツアー。高校時代に世界史にハマり、大学に入り海外旅行にも行くようになったころ、ふと「海外ボランティア」という言葉が目に留まり、「なんか面白そう」という興味だけで参加を決意。オロンガポ(多分誰も知らない)という首都マニラから車で4時間くらいの田舎でホームステイしながら、青空教室というストリートチルドレン(学校に通えない子どもたち)向けに教育プログラムを提供する現地NGOの活動に参加したり、スカベンジャー地域(最貧困地域)の視察など計8日間、自分にとって初めての「途上国経験」をすることになりました。

到着して早々、衝撃の連続。まず、ホームステイ先にはシャワーがなく、バケツにためた水を桶ですくって洗い、トイレは水洗ではないので同じく桶ですくった水で流す。(ちなみにお風呂場は蜘蛛の巣だらけ)ベッドは同じステイ先になった子と2人でシェア、電気は不安定で扇風機の使用や携帯の充電も憚られる状況。朝は鶏の声で起き、いつの間にか鶏が減っていると思ったら、ご飯にチキンが出されている。全てが整った日本で育った当時19歳の自分には衝撃すぎる生活環境でした。

青空教室では近所の公園にたくさんの子供たちが集まって、身体を動かしながら楽しそうに学んでいました。世界史で「ハゲタカと少女」の写真を見たことがあったので、「やせ細った、生気を失った子ども」を想像していた私は、「あ、ストリートチルドレンといっても思ったよりみんな元気で明るいんだ」とポジティブなギャップを抱きました。

フィリピン青空教室
青空教室の様子

青空教室のアクティビティの中で、子どもたちの将来の夢を聞くこともありました。みんな口をそろえて「教師になりたい」「警察官になりたい」「医者になりたい」と立派な夢を抱いていて、しかもその理由のほとんどが、「家族を助けたい」「国のために働きたい」というもの。学校に行っていれば、まだ小学校低学年くらいの子供たち。自分がこの子達くらいのときに、こんなこと、考えたことがあっただろうか?と、急に自分が恥ずかしくもなりました。

フィリピンカヤモヤン
子どもたちの将来の夢を付箋に書いて貼った。"KAYA MO YAN"はタガログ語、英語で"YOU CAN DO IT"の意味。

だけど、日数を重ねるごとに気づいたことが。よく見ると、毎日同じ服を着ている子、青空教室の後に道端で物乞いをしている子、缶を拾い集めて生計を立てている子。よく夜遅くまでステイ先に遊びにきていた子は、とても人なつっこくて一緒によく遊んでいましたが、後から聞いたら母親が薬物中毒で育児放棄、父親は出稼ぎに出ていて不在、だから帰る場所がないんだ、とのことだった。「だから夜遅くまで遊びに来ていたんだ」と、それを聞いて、とても胸が苦しくなりました。

そして嵐のように7日が過ぎ去り、あっという間に帰国の日が来ました。そしてふと思った、今回の参加で自分がこの子達のためにできたことって何だろう?きっと、子どもたちにとっていい思い出作りはできた。だけど、

「目の前にいるこの子どもたちの環境を何も変えることができなかった」

この無力感、不完全燃焼感だけが、自分の心に残ることになりました。もちろん、何のノウハウもない、いち学生ボランティアが、8日間という期間で変えられるわけがないのだけれど、それでも自分がこの目で途上国の現状を目の当たりにした以上、もう「他人事」としては考えられなくなりました。途上国の貧困問題が「どこか遠い世界の問題」であったのが、「自分の身の周りで実際に起きている問題(=自分事)」に変わった瞬間でした。それと同時に「今度はボランティアではなく、ライフワークとしてこの課題を解決したい」という思いが芽生えました。

また、面白いことに、この8日間の活動がとんでもなく楽しかったのです。間違いなく、日本より衛生環境は悪く、不便だし、言語も通じない。なのになぜか?それは日本では感じたことのなかった、新しい世界、価値観に触れることの「楽しさ、わくわく感」があったから。きっと、ボランティアとして「与える立場」だったのに、子どもたちから「与えられたもの」のほうが多く感じて、それが自分にとって凄く刺激的だったのです。別れ際に"Don't cry, don't forget your smile"と、女の子に言われた言葉は、今でも忘れません。

帰国してから、自分なりに途上国の貧困問題について調べたり勉強するようになりました。大学受験の際、心理学を学びたいと思い入学した大学でしたが、あろうことか、大学2年のコース選択では、少しでも貧困問題に近い勉強ができるようにと、社会学を専修しました。3年生になると、大学近辺にオフィスを構える国境なき医師団で広報インターン。その直後にアメリカのボストンに留学。しかし、翌年は春に就活と、夏に所属していた女子野球チームの最後の全国大会が控えていました。そのため期間は半年と短かったですが、それでも「自分は野球を犠牲にしてきているんだ!」と躍起になって、極力日本人とは接さず、クラブ活動にも参加し現地の人とたくさん関わりを持つようにしました。1学期が終わり周りの友人が帰国するなか、1人延長して領事館でインターンしたり、ハーバード大学の学生とともにホームレスの炊き出し支援をしたり、色んなことに挑戦しました。

帰国後、夏に野球を引退するとすぐ、カンボジアで3週間、現地NGOが運営するオープンスクールで英語教師として活動しました。在学中に「貧困の負のスパイラルを脱するには教育が重要だ」と学んだので、よし、今度は実際に自分が教師になってみよう、とのことで挑戦。教員経験のない自分が「英語を英語で教える」という意味不明な状況でしたが、それでも拙い自分の授業を一生懸命聞いて板書をしてくれる生徒を見て、純粋にとても嬉しかったです。

カンボジア
カンボジアでの最後の授業

じゃあ、就職先は国際協力関係の、JICAとか、NPO・NGOでしょ!と言いたかったのですが、新卒で国際協力という門戸は意外と狭く、ましてやいわゆる「途上国経験」が浅かった私は正直納得のいく就職先から内定はもらえませんでした。当時は大学院進学、就浪などいろいろ考えましたが、「民間での経験もきっとためになるだろう」と思い、まずはご縁のあった国内の食品メーカーに入社し、営業職として先月まで約3年弱勤めました。多分「女子野球」というワードだけで根性があると思われたのか、極端に女性が少ない部署の配属でしたが、在職中は営業活動以外にも、債券管理やクレーム処理(笑)など、幅広い業務を経験させてもらいました。

転職を意識したのは社会人2年目。2020年の春募集で協力隊に初めて応募しましたが、間もなくコロナで選考中止。しばらく転職は身動きが取れず、仕事でも赤字経営の得意先の立て直しなど、業務が過渡期であったので、しばらく頭の中から「国際協力」の文字は消えていました。しかし社会人3年目になって業務も落ち着いたころ、ふと自分が学生時代抱いていた、「途上国の貧困問題解決をライフワークにしたい」という熱い思いが冷めてきているのに気づきました。しかも、だんだん仕事を「さぼる」ことを覚えてきた私は、中途半端に、ただ「なんとなく」毎日を過ごしていました。そんな自分が嫌になって、「今年中に会社を辞めよう」、そう思いました。

しかし転職活動も難航しました。「新卒は門戸が狭い」と言いましたが、「中途も」でした。自分が興味を持った、どこの会社、団体も「途上国での業務経験」が求められ、応募要件すら満たない、また選考に進んでも採用人数が多くても「数人」のところに、内定が出ることはありませんでした。一度は「日本の教員になろう」と思い、教員免許なしで提携校に教員として2年派遣されるプログラムの候補生にも選ばれ研修まで受けていましたが、「何か違うな」と思い、途中で辞退。

「結局、自分は国際協力で、何がしたい?何ができるのだろう?」

自信がなくなり、思い悩みました。基本常に動いていないと耐えられないマグロのような性分ですが、このときばかりは、1日中家にいて、自分について見つめ直す日もあり、コンサルに勤める兄には深夜3時まで相談に乗ってもらいました。

悩みに悩み、気づいたこと、自分に欠けていた視点はこうでした。

「自分がわくわくすること、今やりたいことに素直になる」

答えは意外とシンプルでした。自分はきっと、学生時代に抱いた、フィリピンやカンボジアで、何もできなかった、その不完全燃焼を解消したい思いもありつつ、あの新しい価値観、世界観が感じられる、刺激的な毎日をもう一度過ごしたい。自分の国際協力の思いは、単純に「子どもたちを助けたい」だけでなく、「自分のため」でもあったのです。

給料なんてもらわなくていい。途上国に行き、今度はもっと深く、長期で関わり、あの刺激的な毎日とともに、目の前の子どもたちの環境を少しでも変えたい。そしてどうせなら、教育以外の貧困削減アプローチにも挑戦したい。

そう考えたら、なんだかとってもわくわくしました。「途上国で教育するなら教員経験を積まないと」と、「なりたい姿」から逆算して必要なスキルを淡々と積むことばかり考えていて、肝心の「わくわく感」を大事にしていなかったのです。タンザニアで電気の量り売りをするWASSHA㈱の社長も「Have, Do, Be」ではなく「Be, Do, Have」だとお話していましたが、なりたい姿があるならば、まずは飛び込んでなってみる(やってみる)、その中で試行錯誤しながら改善し、そしたら必要なスキルなんて勝手に身についているんだ、という考え。なんだかわたしにはとてもしっくりきました。

そんなこんなで、いくつかNPO団体をあたり、途上国現地への渡航準備を始めていた12月の下旬ごろ。オミクロン株の流行もあり、最後までどこの国に行くか決め兼ねていました。すると、夏に選考を受け、あえなく落ちてしまった会社から突如メールが。「大型プロジェクトが決まり増員が必要になったので、ジョインしてくれないか?」との内容。その会社は、学生時代から知っていた、ICT教育を新興国、途上国に展開する企業で、憧れの就職先でもありました。ただ、その時は渡航する意思を既に固めており、NPO団体の方とも話を進めていたため、正直かなり悩みましたが、年末休暇中にも関わらず、すぐに事業部長の方がオンライン面談をセットしてくれ、色々とお話を聞いたところ、「めちゃくちゃ面白そう!」と思い、その後も悩みながらも、その会社へ入社することを決めました。正直、今でも渡航できなかったことは心残りですが、すべては自分次第、せっかく頂いたチャンスをものにして、もっと成長した自分でまた渡航をしよう、そう思いました。

何のまもまりもない、ただただ自分の学生時代から今現在に至るまでのストーリーを連ねてきましたが(ここまで読んで下さった方は猛者です(笑))「人生の分岐点」って何かすごく衝撃的でインパクトの強いものと思いがちですが、私は自分が生きてきた軌跡の中にある、ほんとちょっとしたことだと思うんです。今回の私の例で言えば、「フィリピンでの原体験」が大きな分岐点に見えるけど、もともとは「あー方仮名のほうが覚えやすそうだなー」と思って学び始めた世界史から世界に興味を持って、たまたま見かけた「海外ボランティア」の広告でボランティアに参加して。こうしたちょっとした積み重ねが、私たちの人生を大きく左右するんだと思うと、日常のちょっとしたことも、大切に思おうって気になりませんか?

私は今まさに人生の分岐点にいると思います。私はこれからも「自分がわくわくすること、今やりたいこと」に素直になって、これからの人生も自分らしく歩んでいこうと思います。そうすれば、自分が死ぬとき、後悔しない人生であるように思えるから。


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