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隣人愛とは何だったのか

なぜか懐かしく、昔から知っていたような気持ちになる言葉がある。

それはマタイによる福音書に記された言葉であり、自分の奥底に生きている存在のように思う。

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

私が通った大学はたまたまキリスト教で、これと同じ教育理念を掲げていた。そして数年前にAO入試で論文を書いた際、この理念に共感したと記したことを覚えている。
まるで自分の一部のように、近くにあっても違和感のない言葉だった。

長い間、私はこの言葉を「他者を自分のことのように大事にすることの重要性」を表現していると思っていて、そういうことを他者に与えたいと思っていた。

先日それを温かく覆す本に出会い、本当はこういう意味だったんだなと気付かされたのだった。

愛にはふたつの在り方があるんだよ。
ひとつは自分自身にむかう愛、もうひとつは他人にむかう愛だよ。
空気が入り、出ていく。ちょうど呼吸とおなじようなものだ。執着があるときは、はき出す空気の量よりも、はるかに多く吸い込むようなものなんだ。これを不均衡って言うんだよ。
あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ、というのは、これがほんとうの愛、均衡のとれた愛なんだよ。
他人のことも自分とおなじ量だけ、おなじように愛するんだよ。

(「もどってきたアミ」より)

自分の愛を他者に与えることだけが美しいのではなく、それを自分へ向けることもとても大事なことなんだね。
わかっているようで見逃していたこと、
わかっているようでどこかに忘れてきたことのように思った。

アミは続けて言った。
それはすごくしっくりくる言葉だった。

まだ、相変わらず神が何かしてくれるとでも思っているの?
神は愛だ。愛はきみの心の中に住んでいる。
きみたち自身で行動するべきなんだ。押し付けるのではなく教えてあげることだ。すべての人が、平和的にお互いに同意し合って、道を示してあげることだよ。
神や誰かがやってくれるのを待っているだけでなく、自分たちで行動することだ。

私は何か他の存在に自分を委ねるのは違うと思っていて、自分自身で決めるべきだと思っている。
なので神というのは誰か人のことを指すのではなく、愛そのものを指していて、その愛で行動することで幸福が生まれることに納得したのだ。

愛が幸福の泉であり、幸福は愛によってのみ手に入れることができる。
そしてそれを自分に向けること、相手にも向けることで幸福を感じられると思う。


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