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ヤヌシュ・コルチャック 〜 こどものために生涯を捧げた小児科医・教育者・作家

こんにちは。

今日は、生涯こどもの教育に力を注ぎ、「こどもの権利条約の父」とも呼ばれているユダヤ系ポーランド人、Janusz Korczak/ヤヌシュ・コルチャックについて書こうと思います。

ポーランドではとても有名で、誰でも知ってる英雄だそうです!

日本語では「コルチャック先生」と呼ばれていて、日本語の書籍が数冊に、『コルチャック先生』という日本語字幕の映画があるようです。

しかしあまり知られていないようなので、こどもの権利条約やいろいろな場面でのこどもの参画が重要視されてきている今、この機会にぜひ、コルチャック先生について知ってもらいたいです!


ヤヌシュ・コルチャックの人生

1878年、ワルシャワに生まれる。
ヤヌシュ・コルチャック、本名はヘンリク・ゴルトシュミット。
(ユダヤ系の名前のため、改名。)

小児科医、作家で教育者。

ヤヌシュ・コルチャックは、医学部生だった頃からワルシャワの貧困地区のこどもたちに温かい手を差し伸べていました。
医師となってからは、軍医としてロシア帝国軍に召集され、戦後、ワルシャワの病院で小児科医として勤務していたそうです。

医師という本業の傍ら作家としても活躍し、ベルリン・パリ・ロンドンでの留学中にこどものための施設やそこでの取り組みに触れたことが、生涯こどものために力を注ぐという彼の生き方につながったと言われています。

1910年に孤児を支援する団体によってユダヤ人孤児のための孤児院「ドム・シェロット(孤児たちの家)」が建設され、ヤヌシュ・コルチャックは施設長に。

1919年にはポーランド人孤児のための孤児院「ナシュ・ドム (われらの家)」を設立。

ヤヌシュ・コルチャックがこのふたつの「ホーム」で大切にしたのは、こどもたちが自治によって自由な雰囲気の中で自分たちを律していくということでした。
こどもたちは意見を出し合い、いろいろと試し、自分たちの自治によってホームの運営を行いました。
こどもたちによる「こどもの議会」「こどもの裁判」「こどもの法典」という3つの柱と、指導委員会が実践されました。
うまくやっていけるかは自分たち次第なので、こどもたちはみんなで力を合わせます。

こどもの権利だけでなく、近年日本でも重視されている「こどもの参画」といった点でも学べることが多いですね。

ヤヌシュ・コルチャックがこどもの権利の3つの大きな柱として掲げたのは、
「死についてのこどもの権利」
「今日という日についてのこどもの権利」
「あるがままである権利」

でした。

現在、こどもの権利条約では、
「生きる権利」
「守られる権利」
「育つ権利」
「参加する権利」

が4つの柱とされています。

1942年、ドイツ軍により孤児院のこどもたちが強制収容所に送還されるとき、自分だけ家に帰ることを許可されたヤヌシュ・コルチャックは、自主的にこどもたちと一緒に鉄道に乗り込み、送還されたトレブリンカ強制収容所で亡くなりました。


こどもの権利条約の父 ヤヌシュ・コルチャック

第二次世界大戦で600万人もの国民の命を失ったポーランド。
そのうち200万人がこどもでした。

この歴史を繰り返すことなく世界を変えていかなければならないと、

『こどもは今を生きているのであって、将来を生きるのではない』

というヤヌシュ・コルチャックの考え方をもとに、
ポーランド政府は1978年に「こどもの権利条約」の草案を国連に提出しました。

国連のこどもの権利条約によって、ヤヌシュ・コルチャックのこどもたちに対する永遠の願いが引き継がれているのです。


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短編映画 
『石が泣いていた。。。ヤヌシュ・コルチャックの人生と死』
日本語訳

"Die Steine weinten - Über Leben und Tod des Janusz Korczak "
『石が泣いていた。。ヤヌシュ・コルチャックの人生と死』
という15分弱のドイツ語の短編映画の内容を下に日本語に訳したので、長くなりますが、興味のある方はぜひ。
(ひとつの媒体で動画を見てもらいながら、別の媒体でテキストを読んでもらうのがいいかなと思います。)

"すべての涙は塩辛い"
「これを理解する者は、こどもの教育をしてよい。これを理解しない者は、こどもの教育をしてはいけない。」

ヤヌシュ・コルチャックとこどもたちの運命。ワルシャワのユダヤ人孤児。
これは、ドイツの歴史の中でも最も忘れ難く暗黒な一章のひとつである。

(こどもたちに)
「おぉぉ、何を持っているんだい?こっちに来て、見せておくれ!」

「大人になったリーザへ。君たちは、こどもたちと関わることは私たちを疲労困憊させると言ったね。その通りだ。しかし、私たちは小さく屈んでこどもたちの思考の世界の中に降りていかないといけないと言ったね、それは間違っている。私たちはこどもたちの感情へと爪先立ちをして登って行って、傷つけないように慎重に触れなければならない。それに私たちは骨を折るのだ。」

1:23
『石が泣いていた。。』
ヤヌシュ・コルチャックの人生と死

1:40
ワルシャワ大学の教育学の学生たちはかの有名な小児科医、児童文学作家のヤヌシュ・コルチャックに特別な場所に呼び出され、少しばかり驚いていた。こども病院のレントゲン室である。こどもをレントゲンのスクリーンの前に立たせ、学生たちにこう言った。
「こどもを理解したければ、まずは自分を理解しなければならない。自分自身のこども時代を思い出さなければならない。」
そして彼は、学生たちの前で変わったデモンストレーションをして見せた。

2:15
「見てごらんなさい。そして、これを常に忘れないこと。
君たちがへとへとになったり、こどもたちが憎たらしくイライラしたり、大きな声を出したり罰を与えたくなったりするとき、これをいつも思い出しなさい。こどもの心臓がこのように反応していることを。」

3:00
「とても早いうちから私たちは大きいものが小さいものよりも意味があると学びながら成長する。全てが自分たちの頭上の高いところで動いていることを学ぶのです。
こどもたちの魂は森のようなものです。木がしなやかに曲がり枝が交わりあい木の葉たちが揺れて触れ合う。ときに隣の木に触れ、ときには森全体の100本の、1000本の木の存在を感じる。
「正しい」「間違っている」「気をつけなさい」「もう一回やって」
私たちがこう言う度にこどもたちにとっては壊滅的な突風のような影響を与えるのです。」

3:45
こどもたちの親へ。
「あなたたちのヤンが小さい頃に金魚や猫を助けなかったり、バラやゴキブリの本を切り刻むようなことをしなかったり、兄弟にたったの一度も毒キノコや森のベリーや他の特別なものを食べさせようとしなかったら、医学を勉強することを強制しないでください。
あなたたちのヴァッツェックが妹やメイドを罰から守ったり励ましたり元気付けたりしようとしなかったら、弁護士になるのを思いとどまらせてください。彼が真実マニアの場合にも同じです。
そうしないと、子孫を不幸にする事になるでしょう。」

4:50
ヤヌシュ・コルチャックがこの考えを書き下ろしていたちょうどその頃、ドイツでの教育は全く異なるものだった。
ヒトラー
「甘やかされた坊ちゃんの世代は必要ない!我々に必要なのは、強い男性と勇敢な女性になる少年少女だ!憂いの表情ではなく、笑顔で世界を見るのだ。なぜならば、この世界は、我々国民は、我が国は、これまでにないほど美しくなったのだ!」
この教育の目的はただひとつ。すべての考えと感情を排除すること。男たちをワルシャワの襲撃に送り、ユダヤ人街を完全に封鎖させ、根菜をゲットーにくすねようとしたこどもたちを逮捕し、有罪とし、射殺させた。

6:00
ヤヌシュ・コルチャックはこの時はまだこの脅威からこどもたちを守ることができていた。訪問者たちは、孤児院では穏やかで平和だったと語った。食事もゲットーの状況の割にとても贅沢だった。こどもの裁判やこどもの議会も行われ、コルチャックはこどもたちと、誰が一ヶ月間乱暴な言葉を使ったり嘘をついたり喧嘩したりしないでいられるか、それか、一週間、もしくは一日。などと賭けをしていた。
しかしヤヌシュ・コルチャックは、時間がもうあまりないことを知っていた。こどもたちの気を逸らし、落ち着かせ、嘘をつかなければならないことを。

6:50
「船が沈んでいく間、先客の期限を保つために、船長はジャズオーケストラを演奏する。私はこの船長になることにした。わたしは自覚を持ち、しっかりと意識を持って死にたい。こどもたちに別れに何を告げるか、分からない。
そのときが来て、ドイツ人に呼ばれたら、こどもたちには一番いい服を着せる。『落ち着いて。心配することはない。田舎の方へ行くんだ。そこで勉強をし、働くんだ。自然の中で、新鮮な空気を吸って。』とこどもたちに言うだろう。
陰鬱な毎日で、夢を見ることすらできない。道端に横たわっている男の子を見た。生きているのか死んでいるのか。誰も気にも留めない。」

8:10
そして、ワルシャワのユダヤ人の1回目の殺滅のための強制送還。ドイツ人兵士に痛めつけられ、殴られ、撮影される。この画像を見る人は、この瞬間、ナチスの視点で世界を観ていると言うことを考えるべきである。

8:50
1942年8月5日、ユダヤ人の孤児院は空け放された。200人のこどもたちが縦横に列になり駅へ向かった。「石が泣いていた」とその列を見た人が後に語った。駅の司令官がコルチャックの本を読んでおり、ここに残ってよいと申し出た。「こどもたちはもちろん送還されるが、あなたは家に帰ってよい」と。「あなたは思い違いをしている」と、コルチャックは自主的にトレブリンカ行きの鉄道に乗り込んだ。
コルチャックがこどもたちに別れを告げられたのかは、誰にも分からない。孤児院を去る若者にいつも励ましの言葉を贈っていた彼が。

9:40
「別れのときが来ました。 長い長い旅路への。
この旅の名前は、『人生』です。
私たちは、何度も何度も考えてました。
君たちに何を持たせてあげられるのか。
言葉は残念ながら貧しく、非力です。
私たちは君たちに、何も与えることはできません。
私たちは君たちに、神を与えません。 神は君たちひとりひとりが、自分自信の魂の中に 探し求めなければならないからです。
私たちは君たちに、祖国を与えません。自分たちで心を懸命に働かせ思慮することでによって見つけなければならないからです。
私たちは君たちに、人間の愛というものを与えません。 人間の愛は寛大さなくしてはありえないからです。 許すということは、容易なことではありません。それはひとりひとりが自分で背負わなければならない重荷です。
私たちは君たちにひとつだけ与えることができます。 今は存在しないけれど、いつかきっと実現するであろう、よりより人生への願望を。公平な人生と、真実への。 おそらく、この願望が、君たちを、神へ、祖国へ、愛へと導くでしょう。さようなら。このことを忘れないように。」

11:50
コルチャックの死の3年後の1945年、同盟国は強制収容所を解放した。
彼らはドイツに、虐殺の規模と責任の大きさを忘れないようにと強いた。

12:25

「私は誰に対しても邪悪なことを望まない。そんなことは私にはできない。それをどうやってするのかも分からない。」

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最後に、コルチャック先生が残した、彼のこどもに対する考え方がよく表れている言葉を。

「こどもは、だんだんと人間になるのではなく、すでに人間である。
彼らの理性に向かって話しかければ、我々のそれに応えることもできるし、心に向かって話しかければ、我々を感じとってもくれる。
こどもは、その魂において、我々がもっているところのあらゆる思考や感覚をもつ才能ある人間なのである。
       ー ヤヌシュ・コルチャック」

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