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「呪い」「歪み」そして──

 突然ですが、私は「苦痛がっているそこら辺の誰かをラクにしてあげたい」といったタイプのお節介焼きです。
以前のnote記事でもお話いたしましたが、私は助けたがりなのです。
ときどき、私がやっていることは有難迷惑なのではなかろうか?偽善ではなかろうか?などと頭を悩ませることもあります。
そのような状態に陥っているとTwitterのフォロワーさんからコメントを頂いたりして支えてもらっております。
"見返りを強要しなければ助かる人は出るのでそれは善行"とか。 
 

 『手を出して加害者に仕立て上げられる確率を発生させるくらいなら、結果的に見殺しになるにしても放置するほうが善良とされる社会』に生きている……という話を聞いて、聞き捨てならないな、捨て置けないな、許せないなと感じることもあり。それについては『それだけの情熱があるならいいと思う、ただ相手から砂かけられても裏切られてもキレずにそっと手を引いて耐えるだけの器が必要だと思うけど』とも別のフォロワーさんから言われておりまして。
私自身寛大ていて狭量と自称し、短気でもあり、まだまだ未熟だなと感じる部分も大いにあります……。
それでも、助けたいという衝動が今日もとまらないのです。最悪なパターンでは、引っ掻き回すだけ引っ掻き回して相手の傷を広げ、相手の心身の状態をさらに悪化させてしまうというものもあります。そんなことになってしまわないためにも、精進あるのみです……。

 

 「認知の歪み」というものをご存知でしょうか。
精神病を患っていない方でも、このような傾向にある人は結構いるんじゃないかと思います。
以下、wikipediaから引用です。

認知の歪み(にんちのゆがみ、Cognitive distortion)とは、誇張的で非合理的な思考パターン(irrational thought pattern)である。これらは精神病理状態(とりわけ抑うつや不安)を永続化させうるとされている。
この概念は精神科医アーロン・ベックが基礎を築き、彼の弟子のデビッド・D・バーンズがその研究を引き継いだ。最も有名なのはバーンズが1989年に著した『フィーリングGoodハンドブック』であり、これらの認知パターンを学び、かつ除去する方法を記している。
こういった思考パターンは、その個人に現実を不正確に認識させ、ネガティブな思考や感情を再強化させうるとされている。バーンズは、気分や感情は事実ではなく、逆に「歪んだ考え方がマイナスの気分を生み出す」と述べている。
スプリッティング(全か無かの思考)
スプリッティングともされ、グレーがなく、物事の全てを白か黒かで認識するという、誤った二分法を用いること。
オール・オア・ナッシング(all-or-nothing)であり、少しでもミスがあれば完全な失敗だと考える。真実でも、真実らしくもない場合でも、常に("always")、すべて("every")、決して("never")などといった言葉を使うのが特徴。
とりわけスプリッティングは境界性パーソナリティ障害や自己愛性パーソナリティ障害の人らに一般的である。
~すべき思考
他人に対し、その人が直面しているケース(状況・状態)に関係なく、彼らは道徳的に「すべきである」「しなければならない」と期待すること。
これを、アルバート・エリスは"must"に掛けて"musturbation"と命名し、デビッド・D・バーンズは、「should構文(should statements)」と、心理療法家Michael C. Grahamは「世界を現実と違った形に期待している」と呼んだ。
・「人は、他人に尽くさなければならない」
・「私は、全ての人に愛されなければならない」
・「絶対にミスをしてはならない」
行き過ぎた一般化
行き過ぎた一般化(Overgeneralization)とは、経験や根拠が不十分なまま早まった一般化を下すこと。 ひとつの事例や、単一の証拠を元に、非常に幅広く一般化した結論を下すことである。たった一回の問題発生だけで、その問題は何度も繰り返すと結論付けてしまう。
・「彼女は今日挨拶をしてくれなかった、きっと私を嫌っているに違いない」
心のフィルター
選択的抽象化(selective abstraction)ともされ、物事全体のうち、悪い部分のほうへ目が行ってしまい、良い部分が除外されてしまうこと。
・「試験において100問中、17問も間違えた、自分は落第するに違いない」
マイナス化思考
マイナス化思考(Disqualifying the positive)では、上手くいったら「これはまぐれだ」と思い、上手くいかなかったら「やっぱりそうなんだ」と考える。良い事があったことを無視してしまうばかりか、それを悪い方にすり替えてしまう。
バーンズによれば、認知障害の中でも最もたちが悪いという。
結論の飛躍
「心の読みすぎ」と「先読みの誤り」の二種類が存在する。
心の読みすぎ(Mind reading)とは、他人の行動や非言語的コミュニケーションから、ネガティブな可能性を推測すること。当人に尋ねることなく、論理的に起こりうる最悪のケースを推測し、その予防措置を取ったりする。
先読みの誤り(Fortune-telling)とは、物事が悪い結果をもたらすと推測すること。悲劇的な結論に一足先にジャンプしてしまう。
拡大解釈、過小解釈
「針小棒大に言う」ともされる。失敗、弱み、脅威について、実際よりも過大に受け取ったり、一方で成功、強み、チャンスについて実際よりも過小に考えている。
感情の理由づけ
感情の理由づけ(Emotional reasoning)とは、単なる感情のみを根拠として、自分の考えが正しいと結論を下すこと。ネガティブな感情は、物事の真実を覆い隠し、人間に、その感情にリンクした考えのほうを現実らしく経験させる。感情によって作り出された「認知」が、正しいかどうか常に検証することにより、この「心の監獄」から抜け出すことができる。
レッテル貼り
行き過ぎた一般化のより深刻なケースである。偶発性・外因性の出来事であるのに、それを誰かの人物像やこれまでの行動に帰属させて、ネガティブなレッテルを張ることである。間違った認知により誤った人物像を創作してしまうことであり、これは自分、他人を問わない。
このようなことになるのは、レッテル貼りというのは、ある事象を言語で記述する際に、人の行動を評価する強力な説明能力を持っているからである。
・単に「失敗した」ではなく、「自分は全くダメな人間だ」や、「あいつはろくでなしだ」と考える
個人化
パーソナライゼーション(personalization)。自分がコントロールできないような結果が起こった時、それを自分の個人的責任として帰属させることである。これは称賛的なものもあれば、非難的なものも含む。
・「今日雨が降ったのは、私の責任だ」

 私もどれかに当てはまっているかもしれないですね、自覚はありませんがこういうのは自覚が無いのがおそろしいのです。
他、こういうものも関連にありました──

自己愛的防衛(じこあいてきぼうえい、英: Narcissistic defences)とは、自らの理想的な側面を保護し、その側面の限界を否認するプロセスである。そうした人々は、硬直的で融通が利かない傾向がある。彼らは意識的・無意識的にかかわらず、しばしば罪と恥の感情に駆られる。

 "硬直的で融通が利かない傾向がある。彼らは意識的・無意識的にかかわらず、しばしば罪と恥の感情に駆られる"
ああーっすごく、そういうひとすごく見覚えがありますね、フォロワーさんとかに。私はそういう人たちに度々腹を立ててしまいます。よくないですね。自己愛的防衛についてのリンク(wikipedia)を貼っておきます。

 つまり、この記事で何が言いたいかと言いますと
「受け取り手の内面が歪んでいると、こちら(発信者)からの言葉や行為も歪んでしまう」ということなのですね。
その人の過去、家庭環境が苛烈であったとか、親から子供への虐待がひどかったとか、学校や職場で凄惨ないじめに遭っていただとか、虐待とまではいかずとも親や上司が否定的(モラハラ的)であったとか。
様々な要因で、人というのは簡単に歪んでしまうものだと思うのです。「歪み」とは、植え付けられた「呪い」の結果です。
それら要素のせいで当人の心身は頑固なまでにベキョベキョになってしまっているのです。

 時々「自分の怪我は自分で処理しないといけない」といった姿勢の人がいます。
自分を常に強く見せていたいとか、心配されたくないとかなら話はわかりますし私も突っ込んでいかず受け身になるのですが。
そういう姿勢でいたいなら痛い苦しいと声をあげないでほしいとも思ってしまいますね……。お節介を焼きたくなってしまうので。
それでいて、自分の怪我は自分で何とかしないといけないと思い込んでいるタイプの人は、おそらく過去に"そうインプットさせられるような何かがあった"のでしょうね。
自分自身を責め立てて自傷したり、パニックになったり、身を守ろうとしたりして素直に助けを乞うことができないのですから。

  周囲の人間は存外、見捨てることをしません。あなたに手を差し伸べてくれる人もいることでしょう。
ですが、過去の諸々があったことでロック(鍵)がかかって思うように応じる(差し出された手をとる)ことができなかったりすることもあるでしょう。 
きっと、手をとることができない自分自身に対して、何故、どうしてともどかしく感じたりもするでしょう。
このような場合における完璧主義はあなた自身の首を絞めるだけです。恥や罪であると感じる必要はありません、助けたいとか寄り掛かってもいいよと言ってくれる人間がいるなら迷惑でもないのだし、しんどいつらいときや、鬱積が溜め込まれているときとかはダメ人間になっても許されるのです。

 『私にはこれまで助けてくれるような人などいなかった、いついかなるときも見放されていた』?
そういう声もきっとあるかと思います。実際、私も自分の両手ですくえる分しかすくえません。
でも、この記事を読んでくださっているということでしょうから、私の拙い文章でも少しでもあなたの気持ちがラクになってくれたらと。

私はそー思うわけです。

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